★2019年4月23日(火)に掲載したブログのアップデート版です★
(1979年西武ファンブックより)
生涯一捕手として最善を尽くすという超ベテラン。
肩が衰えたといわれているが、フロリダでは連投、クイック・モーションを盛んに練習。
全試合をめざす気迫はすばらしい。
若手投手が多いだけに、監督もいままでの経験を生かしたヘッドワークとリード面に期待をかけている。
打者としても長打こそ少なくなったが、やはりここぞという時の一発は恐ろしい。
44歳という年齢を克服して、どこまで活躍するか、いまから楽しみだ。
【1979年の野村克也】
西武在籍:1年目(44歳)、※ロッテから移籍、背番号19
打撃成績:74試合、43安打、5本塁打、22打点、1盗塁、打率.222
1977年に南海の兼任監督を解任され、1978年にロッテへ移籍。
1978年オフには、次期監督候補としてオーナーからの要請もあったが、それを固辞し引退を覚悟の上で自ら自由契約を選択。ロッテを退団した。
しかし野村自身「生涯現役」と50歳まで現役を続けたい思いがあり、ロッテ退団後も他球団でのプレーを模索していた。
そこへ新球団の西武から声が掛かかり西武へ入団した。
1978年12月1日に行われた西武入団会見では「26年目も野球をやらせてくれる西武に深く感謝している。最後の最後まで野球に取り組みたい。レギュラー目指してがんばる。」とコメントした。
西武移籍後の1979年は、西武ライオンズとしての初の公式戦となった4月7日近鉄との開幕戦で6番・捕手として先発出場を果たした。
開幕戦では移籍後初安打と初盗塁を記録している。
その後は、開幕から5試合連続など4月中は先発マスクを被ることが多かったが、44歳という年齢もあり、次第に出場機会は限られていった。
それでも長年培った技術と経験でキャッチャーとしてチームに貢献。
若手投手へはバッテリーを組みながら教育をした。
特に新人の松沼博久が先発登板する試合は、野村も先発でマスクをかぶることが多く、松沼博久-野村が先発バッテリーだった試合は9勝2敗と好成績を収めた。
最終的に野村はこの年74試合に出場し、そのうち59試合で捕手として出場している。
5月27日対南海前期6回戦(鳥屋野運動公園野球場)で、4回表に村上之宏から左越先制ソロを放ち、通算650号本塁打を達成。
9月21日対阪急後期12回戦(阪急西宮球場)で、4回表に立花義家の中前適時打で生還し、通算1500得点をあげる。
【1979年名場面】
1979年5月27日(日) ○西武5-2南海●
野村克也、通算650号本塁打の大記録
4回表一死、野村は南海・村上からレフトスタンドへソロ本塁打を放ち、プロ通算650号本塁打を達成した。
プロ入り26年目で打ち建てたこの記録は、王貞治の814本(当時)に次ぐ大記録である。
(新潟市営鳥屋野球場:観衆1万6千人)
次回「1979年 野村克也 Part.2」へつづきます。
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