★2018年9月16日(日)に掲載したブログのアップデート版です★
(1979年西武ファンブックより)
クラウチング・スタイルの打撃フォームはピート・ローズそっくりと評判。
ロングヒッターというよりはシュアーなバッター。
ハワイ・アイランダースでは俊足を生かして1番を打っていた。
低目の球に強く変化球も芯で捕らえる鋭い当たりは新風を巻き起こすに違いない。
【1979年のマルーフ】
西武在籍:1年目(30歳)、※米パドレス傘下マイナーから移籍、背番号4
打撃成績:129試合、146安打、12本塁打、48打点、18盗塁、打率.290
大学卒業後の1971年にミネソタ・ツインズへ入団。
その後、マイナーリーグでプレーをした後、1979年に来日し西武へ入団。
西武球団初の外国人選手の一人として在籍した。
来日1年目の1979年は、4月7日対近鉄前期1回戦(日生球場)の開幕戦で、1番・中堅手として先発で初出場。
新生・西武ライオンズの船出となるこの試合の1回表にいきなり鈴木啓示から右前安打を放った。
この安打は、当然マルーフ自身の来日後初安打であったが、同時に西武球団史上、最初の安打でもあった。
4月16日対日本ハム前期3回戦(西武球場)で、5回裏に杉山知隆からタイムリー安打を放ち、初打点を記録した。
5月9日対南海前期3回戦(大阪球場)で、3回表に森口益光からソロを放ち、初本塁打を記録した。
この試合はその初本塁打を含む4打数4安打と打ちまくった。
5月16日対日本ハム戦では、3安打に3打点、加えて3盗塁と大暴れした。
その後も主にトップバッターとしてシーズン終了までチームを牽引し続けた。
俊足のアベレージヒッターという前評判通り、開幕から8試合連続で安打を放つなど146安打、打率.290の成績を残し、盗塁も18個を記録した。
打率.290は、リーグ17位だったが、西武の規定打席到達選手の中では最も高い数字であった。
しかし、この年限りで現役を引退。
わずか1年で西武を去った。
帰国後はマナーリーグの監督、メジャーのコーチを経てフロント入りするなどした。
【1979年当時の記事写真とコメント】
不気味さ秘めた大型助っ人
がっちりした逆三角形の体つきを見ただけで、いかにも力強い印象を与える。
投手をにらむ鋭い目は野性的な魅力にあふれている。
ピート・ローズが左打席に立った時のようなバッティングフォームは精悍そのもの。
「私は日本のメジャーで頑張る」と宣言した。
【1979年当時の野球カード】
TCMA1979 No.14
TCMA1979 No.14(裏面)
私が知る限り、マルーフの日本製のベースボールカードは存在しないと思います。
アメリカ製では、TCMA社が発行した「Japanese Pro Baseball」というシリーズでカード化されており、資料としても大変貴重な1枚かと思います。