3月22日、

さて、観音経がらみの記事で「盛久」はある意味まり子がお能にメザメた曲であると書きましたが、後で気づいたんですが、4月の五雲会にて久しぶりに「盛久」が出る(シテ:水上輝和師)んですね~。
まり子はほぼ確実に、4月のお能は「和の会」以外は観にゆけナイ、ことが決まっておりまするので、
演目に注意してナカッタのです。(ああ、でもまだ「和の会」もチケット入手してないや…。)
迂闊な♀、汝の名はまり子…

ということで(ナニが?)深い信仰が命を救った、という話の「盛久」について、ちょいと
書いてみようかと思います。
盛久の姓は「平」ですが、いわゆる本家本筋の「平」ではなく、家来筋のようです。
主馬判官と呼ばれた伊勢守盛国の八男で、父に因んで主馬八郎左衛門と呼ばれていたとか。
そして盛久は、若年より仏心が篤かったそうで、源平の合戦を通じて特別の武勲はなかった
ものの、壇ノ浦の合戦を生き延び、都に戻りました。
景清と同じように、潜伏して頼朝を討つつもりであったのかもしれません。
清水寺の阿闍梨・良観に帰依していた盛久は、等身大の千手観音像を造立して
これを金堂の内陣の本尊の右脇に安置してもらい、千日参りを始めます。(頼朝討伐祈願か?)
しかし、毎夜白い直垂を着て清水寺に詣でていることを密告されて捕らえられてしまい、
鎌倉に護送されることになりました。
能「盛久」はここから始まります。
まり子が最初に観た「盛久」のおシテ様は、朝倉俊樹師。
シテはワキヅレ二人がさし掛ける作り物の屋根みたいなものの下に位置します。
これが子方で天皇役だったりすると輿なんだろうな~と思うのですが、罪人を護送するので、
輿とかじゃない護送車?なんでしょうね~。
ここで、盛久ご一行?様は、三人ピタと寄り添って動き、笛の前あたりに位置したっきり
微動だにしません。
この間、地謡がえんえんと謡うのです。
シテは直面。お顔を全部見所にさらしています。表情は全く変わりません。
まり子は、
これって直面でシテは大変だな~、それにしても全く動きませんのう~。
なんてぼんやり思って謡を聞いていたのですが、その時突然、
ヘレン・ケラーが井戸水で「WATER」を理解したかのごとくに
(↑チョ~大袈裟!)
あ、シテとワキヅレは全く動かないけれど、これは護送されてゆく道中で
周りは次々に景色が変わっているんだ、おシテ様は処刑されに鎌倉に行く、
その覚悟で車に乗ってるんだ、
ってことが、突然理解

(あまりにトロいまり子…、ですけれど…。)
その瞬間以降、なんだか能舞台の柱の内側に景色が見えるような気がいたしました。
お能って、こういう風に観るのね~、と妙に感動に浸ったまり子。
でも今思うと、おシテ様の力量っていうか、おシテ様が「盛久」になりきっている、
その胆力がなかったら、あの瞬間は下りてこなかったと思うのです。
この「盛久」以来、朝倉俊樹師ファンにもなった、まり子…。
オレ様チック



まり子は、この朝倉俊樹師の「盛久」の翌年だか翌々年だかに金井雄資師の「盛久」を、
またその翌年だか翌々年だかに辰巳満次郎様

いずれアヤメかカキツバタ…、ってあまり適切な表現ではござぁませんけど、
それをここに書くと長くなるので「プレイバック満次郎」に書きたいと思います。
それにしてもさぁ~、この三人で会をしたらいいのになぁ~。
おっと、「盛久」に戻ります。
地謡が終わり、鎌倉に着いた盛久はいよいよ処刑されることとなります。
(ちょい、はしょりました)
ワキ(土屋三郎)が、太刀を抜いて盛久のクビをはねようとした瞬間、刀身が二つ(段段)
に折れてしまいます、ってお能では手から落としたんだっけか…、
とにかくワキはシテを処刑できないんですよ。
まさに、
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
なんです。
シテはありがたいお経をいただき、
とうじぃんん、だんだんにぇ~、のぉ
と謡い、頭を垂れて清水寺の千手観音に感謝を捧げます。
この奇跡により盛久は許され、勇壮に悦びの舞(男舞)を舞って、故郷に帰ってゆきます。
お能はここで終わりますが、この後のお話があります。
実は清水寺では、まさに盛久が処刑されようとする時間に、盛久が安置した千手観音像が
俄かに倒れて手が折れたんだという…。
盛久が帰京して真っ先に清水寺に御礼参りをした折にその話を聞き、千手観音が鎌倉まで
盛久を救いに行ったのだと、一同深く感謝申し上げんだそうです。
スゴイ…

