明治20年代後半の下関要塞では、海上射撃を行う砲台建設と合わせて、敵上陸兵に対する陸正面防御が「下関地区」「企救半島地区」「洞海方面地区」の3か所において計画されました。

このうち下関地区と企救半島地区ではいくつかの堡塁が設けられましたが、洞海方面地区は経費の関係で明治34年(1901)に建設が中止となりました。

 

地図で示します。

 

洞海方面の陸正面防御地区は現在の北九州市若松区、八幡東区、八幡西区に跨る地域です。結果的にこの地区には防御営造物たる砲台、堡塁、框舎、弾薬庫は造られませんでしたが、建設予定地は陸軍が買収して要塞地帯に組み込んでいましたので、地図に記載した77臨時堡塁以外の堡塁は第一区要塞地帯として指定されました。

 

※参考リンク:

 

 

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今回取り上げるのは二島堡塁と惣田堡塁建設予定地の要塞地帯です。明治43年(1910)の要塞地帯図で見てみます。

 

日清戦争後の明治28年(1895)、洞海方面陸正面防御の一環として洞海湾北部の若松半島に1堡塁1框舎の建設が計画されました。

堡塁は、「二島北方標高240ノ高地」(岩尾山)に設置する独立閉鎖堡で、その後「二島堡塁」として兵備の内容が詰められました。

一方「標高304ノ山頂」(石峯山)には框舎の構築が堡塁と合わせて進められました。その後の変更により框舎から「惣田堡塁」に改められて建設が検討されましたが、両堡塁は明治34年に建設中止となりました。

 

堡塁建設予定地だった岩尾山と石峯山の周囲に第一区の区割線が引かれています。さらに外側には、2つの第一区を内包する形で第二区のラインが走っています。なお、この地区で確認した要塞地帯標石は2本となります。

 

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古地図にて第一区を見てみます。

 

岩尾山の山頂にはNTTの中継アンテナが立っていますが、二島堡塁の建設予定地は山頂の北側ピークだったのではないかと推測しています。なお第一区は6本の地帯標石で囲われており、最北の第六号が現存しています。

一方惣田堡塁は、框舎の計画時に山頂に構築することになっていましたので、堡塁建設予定地も石峯山の山頂にマークしました。こちらも第一区は6本の地帯標石で、第一号が石峰神社の参道に現存しています。なお石峯山の山頂には、昭和の大東亜戦争時に高射砲陣地が置かれました。

 

高射砲陣地のレポートはこちらにて。

 

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まずは二島堡塁の第一区第六号を見に行きます。

探索したのは3年前ですが、その時は岩尾山北西の弥勒山から下って歩きました。尾根上には陸軍境界標が並んでおり、7本を確認した後で要塞地帯標を発見しました。

 

7本のうちの1本。頭頂部に“M”の文字が刻まれています。

 

弥勒山の山頂には高射砲陣地と思われる痕跡が残っていますが、記録に残っていないので偽装砲台だった可能性があります。いずれにせよ陸軍境界標が埋設されたのは昭和期ではなく明治期だと思われますので、軍道を敷設する予定だったのかもしれませんね。

 

参考記事:

 

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第六号標石です。

 

表面の“S.M. 1st Z 下關要塞第一地帯標”

 

右面の“第六号”

 

左面の“明治三十二年九月一日”

 

裏面の“陸軍省”

 

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次は惣田堡塁建設予定地の第一区第一号を見に行きます。

 

道路から石峰神社の参道を進みます。

 

素敵な赤レンガ倉庫を横目に石段を上がります。

 

一ノ鳥居に掲げられている石峰神社の扁額。

 

さらに進むと二ノ鳥居が現れますが、要塞地帯標は鳥居の先に立っています。

 

第一号標石です。表面の“S.M. 1st Z 下關要塞第一地帯標”

 

右面の“第一号”

 

左面の“明治三十二年九月一日”

 

裏面の“陸軍省”

 

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せっかくなので拝殿まで上がります。

 

参拝。

 

以上、二島堡塁/惣田堡塁建設予定地の第一区要塞地帯でした。