水雷射堡隊の記事は3年前に書きましたが、その時は遠目から魚雷格納庫を見ただけでした。今回は近くまで下りてみたので、あらためてレポートします。

 

以前の記事はこちら。

 

対馬警備隊の概略はこちら。

 

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水雷射堡隊とは陸上から魚雷を発射して敵艦を攻撃する部隊のことです。

大東亜戦争後期、米軍の上陸に備えて島嶼部や日本本土に沿岸砲の洞窟配備が進められましたが、これと合わせて射堡の設置も計画されることになりました。

昭和19年後半から昭和20年になると魚雷を積載する艦船や航空機は著しく減少していきましたが、魚雷自体は数があって倉庫に置かれているので、だったらこれを使おうよと言う発想に至ったのでしょう。そもそも明治期には、対ロシア戦に備えて陸上から魚雷を射出する水雷砲台と言う施設がありましたので、射堡の配備は当然の帰結だったのかもしれませんね。

 

対馬警備隊に属する水雷射堡隊は、今回紹介する神崎、対馬中部の浅茅湾(あそうわん)入口の郷崎、そして壱岐島北部に浮かぶ辰ノ島の3ヵ所に設置することになりました。米軍が攻めてきた時に魚雷攻撃を行うべく陣地の構築が進みましたが、いずれも未完成のまま終戦を迎えました。

 

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神崎(こうさき)派遣隊所属の3部隊の位置を示します。

 

2021年11月に神崎防備衛所を探索した時に射堡隊の場所まで向かいましたが、道もなく斜面も急だったので引き返しました。

今年2024年5月はルートを変えて水上電探まで進んだところ、電探部隊から射堡隊まで道が通じていることを確認しました。

 

水雷射堡隊隊の見取図です。

 

水上電探陣地から薄く残る交通路を下ると、海岸を望む場所に水雷射堡隊の施設が現れます。なお遺構の名称は、「昭和20年9月30日 引渡目録 対馬警備隊」掲載の地図と照らし合わせて記載しました。

 

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水上電探の兵員室壕から西に向けて下る交通路があるので辿ってみます。

 

交通路と言っても道筋は薄いです。斜面なので滑りそう。

 

15分弱歩くと道沿い谷側に削平地が現れました。

 

下りてみました。

 

史料には載っていないので自然にできた崩落かと思いましたが、下りて確認するとあきらかに人の手で掘られた跡でした。

 

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再び西に進むと、枯れ沢沿いに標石とコンクリート桝などが残る場所に到着。どうやらココが射堡隊の施設跡のようです。


「神嵜燈台用地」と彫られた標石が立っています。

 

神崎灯台は神崎先端に建つ明治41年(1908年)初点の灯台ですが、灯台からここまで結構距離があるんですよね。なぜこんな遠い場所に用地を設けたのか?

 

標石をよく見ると、“神”の字の上から別の文字を彫ろうとした痕跡が確認できます。“射”と読めなくもないので、“射堡隊”と彫ろうとしたのかも。

 

標石の隣にコンクリート桝があります。見取図では井戸としました。

 

井戸の山側は枯れ沢です。

 

木漏れ日で見難いですが削平地があります。史料では浴室の位置だったようです。

 

こちらの削平地は烹炊所です。史料では「8m×3m 半地下木造」とあります。

 

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斜面に回り込むと倉庫壕(糧食庫壕)があります。

 

史料では「I型洞窟 20m×3m×3m」と書かれています。

 

倉庫壕の隣に兵員室壕があったようですが崩落してしまったようです。兵員室はH型洞窟だったので2つの矢印箇所の部分が入口だったと思われます。

 

史料には「入口壕 18m×3m×3m 2本、内壕 10m×3m×3m 1本、寝台82名分完備」と書かれています。

 

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崩落した兵員室壕の山側に石垣が設けられています。この上は平坦地になっていますが、灯台用地時代か軍時代のどちらに構築されたかは分かりません。

 

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枯れ沢を辿って海岸が見える位置まで下りて来ました。

 

矢印の所に魚雷格納壕があります。奥から第一壕、第二壕、第三壕ですが、奥の第一壕ははっきり分かりません。なお第4壕はこの下にあります。

 

ここまで来たので海岸まで下りて魚雷格納壕に入ってみようと思いましたが、滑りそうだったので止めておきました。写真では簡単に下りられるように見えますが、危ないと思ったら止めるのが得策です。

 

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と言うことで、ここからは3年前に遠目で見た写真を掲載して説明します。

 

神崎射堡隊の魚雷格納壕と思われる洞窟は松無浦の湾内にあります。

 

拡大してみます。

 

岸壁に4つの穴が確認できますが、『引渡目録』と照合すると数も場所も合いますので魚雷格納壕で間違いないと思われます。『引渡目録』では右から第一、第二、第三、第四壕と番号が付与されており、それぞれ長さ35m×幅2.8m×高さ2.8mのI型洞窟でした。

兵器は既に到着しており、八年式魚雷12本(第一に3本、第二と第三に各4本、第四に1本)を始めとして水測兵器や燃料などを格納中でしたが、魚雷の射出に必要な海中滑台(軌道)の設置が未完成のため発射は不能でした。

 

ちなみに八年式魚雷は大正8年(1919)制定の魚雷です。直径61㎝、全長8,415㎝、炸薬量約350㎏の大型魚雷で、採用後は巡洋艦や駆逐艦の大部分に装備されましたが、昭和期には新たな魚雷に換装されていきました。つまり射堡隊で使われる予定だったのは古い魚雷と言うことになりますね。

 

『引渡目録』から魚雷格納庫の部分を抜粋しました。

 

魚雷の発射方法ですが、この穴から海中に向けて敷かれた軌道の上を台車に乗った魚雷が走っていき、海中に入って台車が離れた後は目標に向かって進んで行く、、、と言う感じだったようです。

 

現在のgoogle mapの地図に軌道を書き込んでみました。

 

この軌道の敷き方でちゃんと魚雷が走るのか、レールを走る時の動力ってどうなってるのか、海中の深度は浅いけど調整できるのか、そもそも敵艦に当てることができるのか、、、いろいろと疑問が浮かんできますね。

射界は非常に狭くほぼ一方向に固定となりますが、水上電探の指揮所が射堡隊の発射指揮を兼ねていましたので、射撃管制用の水上電探を用いれば命中精度も上がるのでしょう。。。知らんけど。

 

指揮所と射堡隊の位置関係。

 

以上、神崎射堡隊の水雷射堡隊のレポートでした。

 

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[参考資料]

「昭和20年9月30日 引渡目録 対馬警備隊」(Ref No.C08011397300~C08011400800、アジア歴史資料センター)

「派遣隊所在各地(1)」(Ref No.C08011406900、アジア歴史資料センター)

「引渡目録 訂正表」(Ref No.C08011051500、アジア歴史資料センター)

「海軍水雷史」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「国土地理院地図(電子国土web)」を加工して使用

「google map」を加工して使用