対馬海軍警備隊の神崎(こうざき)派遣隊は、防備衛所、水雷射堡隊、水上電探の3隊で構成されていました。

防備衛所を探索した後で射堡隊と水上電探の場所も目指したのですが、道のない急斜面が続いたため探索を断念しました。ただ、遠方より射堡隊の魚雷格納壕と思われる洞窟を確認しましたので、簡単に紹介していきます。

 

(対馬海軍警備隊の概略はこちら→→→

 

神崎派遣隊の配置図を掲載します。

射堡隊と水上電探の場所は推定ですが、海岸岩場にある4つの洞窟が遠目からでも見えますので射堡隊はこの場所でしょう。

 

さて、射堡(しゃほ)とは陸上から魚雷を発射して敵艦を攻撃する施設のことです。

大東亜戦争後期、米軍の上陸に備えて島嶼部や日本本土に沿岸砲の配備が進められましたが、これと合わせて射堡の設置も計画されることになりました。昭和19年後半から昭和20年になると魚雷を積載する艦船や航空機は著しく減少していきましたが、魚雷自体は数があって倉庫に置かれているので、だったらこれを使おうよ、と言う発想に至ったのでしょう。そもそも明治期には、対ロシア戦に備えて陸上から魚雷を射出する水雷砲台と言う施設がありましたので、射堡の配備は当然の帰結だったのかもしれませんね。

 

対馬警備隊に属する射堡隊は、この神崎と、対馬中部の浅茅湾(あそうわん)入口の郷崎、そして壱岐島北部に浮かぶ辰ノ島の3ヵ所に設置することになりました。米軍が攻めてきた時に魚雷攻撃を行うべく陣地の構築が進みましたが、いずれも未完成のまま終戦を迎えました。

 

なお水上電探ですが、電探とは電波探信儀の略で、いわゆるレーダーのことです。電探には警戒用と射撃管制用の2種類がありましたが、対馬警備隊の『引渡目録』を読むと、神崎では魚雷の発射指揮は水上電探の指揮所で行うことになっていたようですので、射撃管制用の電探が置かれる計画だったと思われます。なお神崎の水上電探陣地は兵器未着で洞窟掘削中でした。

 

て、神崎射堡隊の魚雷格納壕と思われる洞窟は松無浦の湾内にあります。

 

拡大してみます。

 

岸壁に4つの穴が確認できますが、『引渡目録』と照合すると数も場所も合いますので間違いないと思われます。

なお右から第一、第二、第三、第四壕と番号が付与されており、それぞれ長さ35m×幅2.8m×高さ2.8mの魚雷格納壕だったようです。

『引渡目録』では、八年式魚雷が12本(第一に3本、第二と第三に各4本、第四に1本)が格納中となっていますが、設備が未完成のため発射は不能でした。

ちなみにこの格納壕の周辺に兵員の棲息施設となる洞窟が2本、半地下施設が2つ建設中で90%の進捗だったようです。探索すれば洞窟が残っているのかな。

 

ところで魚雷の発射方法ですが、この穴から海中に向けて敷かれたレールの上を台車に乗った魚雷が走っていき、海中に入って台車が離れた後は目標に向かって進んで行く、、、と言う感じだったようです。

レール(軌道)は未完成でしたが、レールの敷設予定を空中写真に書き込んでみたのがこちら。

 

この敷き方でちゃんと魚雷が走るのか、レールを走る時の動力ってどうなってるのか、海中の深度は浅いけど調整できるのか、そもそもちゃんと当たるのか、、、いろいろと疑問が浮かんできますね。

射界はめっちゃ狭い。ほぼ一方向に固定か。敵艦を観測して測距して未来位置を予想して発射するのだろうけど、命中させるのって相当大変では?(・。・; 水上電探を用いれば精度が上がるのでしょう、、、知らんけど。

 

以上、神崎射堡隊/水上電探でした。

 

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[参考資料]

「昭和20年9月30日 引渡目録 対馬警備隊」(Ref No.C08011397300~C08011400800、アジア歴史資料センター)

「派遣隊所在各地(1)」(Ref No.C08011406900、アジア歴史資料センター)

「引渡目録 訂正表」(Ref No.C08011051500、アジア歴史資料センター)

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