2年ぶりに「対馬の守り」カテゴリーの投稿です。
本カテゴリーは日露戦争時の海軍施設を探訪していますが、先月芋崎砲台の遺構を確認してきましたのでレポートします。
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日露戦争時の浅茅湾防御施設図を掲載します。
日露戦争に際して海軍は浅茅湾(あそうわん)、三浦湾、鶏知湾(けちわん)防御のため側防砲台を急造しました。芋崎以外は明治37年1月から3月にかけて構築され、芋崎は10月に追加されました。
芋崎は現在の美津島町昼ヶ浦に位置する浅茅湾に突き出した岬ですが、砲台は日露戦争開戦後の明治37年(1904)10月15日に竣工しました。第三艦隊の泊地となっていた尾崎湾の防御強化を図るため、対馬東岸の鶏知湾防御に当たっていた根曽崎砲台から四十七密米山内軽速射砲4門を芋崎に移設しました。
◆起工:明治37年(1904)9月3日
◆竣工:明治37年(1904)10月15日
◆備砲完了:同上
◆備砲:四十七密米山内軽速射砲4門
四十七密山内軽速射砲は、仏国ホチキス社が開発した対水雷艇速射砲を山内万寿治海軍大尉が改良した火砲です。以前説明しましたので下記記事をご覧下さい。
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芋崎の施設配置図です。
芋崎には陸軍の砲台(明治21年築城)と電燈(明治34年築城)、海軍の側防砲台(明治37年築城)が置かれましたが、岬の付け根には露西亜軍艦泊留地跡があります。なお芋崎の南側には用途不明の掩体(陣地跡)が残っています。
【参考記事】
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それでは現地を訪れます。
芋崎砲台手前から北西に伸びる交通路を下って行きます。
10分歩いて、海岸の露西亜軍艦泊留地跡に下りました。
文久元年(1861)、露西亜の軍艦ポサドニック号が対馬浅茅湾の尾崎浦に投錨、芋崎に無断で上陸して兵舎や修理工場などを建設しました。その後の日露折衝と英国の介入により、半年後にポサドニック号は対馬から退去しました。これを記念して昭和3年に「文久元年魯寇之跡」が芋崎の上陸地に建立されましたが、現地には露西亜兵が掘った井戸と建物跡が残っています。
井戸です。
建物跡です。
登山口にある説明書き。
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泊留地跡から北側に伸びる道を進みます。
陸軍電燈所を越えて北端を目指しています。なかなかな崖っぷりです。
陸海軍の境界標石が現れました。右が海軍、左が陸軍です。
反対側からも見てみます。
左の海軍標石の頭頂部を見ると矢印が彫られていますが、ココから北側が海軍の敷地ですよと言うのを示しています。
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標石からしばらく歩くと海軍の砲台跡に到着しましたので見取図を掲載します。
砲座には4つの丸い穴が開いており、複数の建物があった痕跡が残っています。建物の名称は史料に基づき記載しました。
なお、海軍軍令部が編纂した「極秘 明治37.8年海戦史」には芋崎砲台の施設図が載っていますが、その図と実際の地形はほぼほぼ合致しています。
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それでは見て行きます。まずは削平地です。
削平地の北側に排水溝があります。
右カーブを取って火薬庫の前を走っています。
掘込窪地が2つありますが、これを火薬庫としました。南側の窪地を前方から。
北側の窪地。
火薬庫後方は通路になっていますが、これを上がると砲座があります。
砲座です。史料での設置標高は54フィート(16.5メートル)となっています。
火砲を据えた砲床は円形の窪地となっています。少々見難いですが4門編成なので全部で4つあります。右側1番,2番と記しました。
続いて3番、4番。
当時はおそらく円形窪地の上に木板が置かれていたのではないかと思われます。
砲座前面の景色です。
芋崎砲台に置かれたのは四十七密山内軽速射砲4門です。下記は山内改良版ではないですが、参考までに保式四十七密米速射砲のイラストを掲載しておきます。
(「海軍図説 訂正第4版 1898」より引用)
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砲座北側に削平地がありますが、ここに見張所が置かれていました。
瓦が散乱しています。
見張所は4坪(約8.5畳)の建物で、史料では「四十八谷ノ西岸ヨリ西方ヲ経テ尾崎九郎太郎島ニ至ル間」が観界とされています。
見張所削平地の端にコンクリートの瓦礫に丸い穴が開いた構造物があります。
同じような構造物が下の道沿いにも放置されています。こちらは四角の穴ですが、電信竿でも設置していたのでしょうか。
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見張所から東岸を見下ろすと不明建物があった削平地が見えます。
道を辿って削平地に下ります。
不明建物があった削平地には瓦、レンガ、石材など建物の痕跡が転がっています。
「極秘 明治37.8年海戦史」掲載の施設図には建物が描かれていますが用途は書かれていませんので不明建物としました。
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不明建物の削平地は砲台敷地北端にありますが、その先に灯台があります。
岩場を歩いて芋崎灯台に到着。この日は風が強かったので怖かったです(;'∀')
昭和52年1月初点
当然ながら海から上陸できるようになっています。
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灯台から戻って兵舎が置かれた削平地を見に行きます。
他の削平地よりレンガが多めですので、レンガ造りの建物があったのでしょう。
海側が石積みされています。
なお史料の施設図には桟橋が描かれています。特定はできませんでしたが、もしかしたらこの石積みかも。
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以上で芋崎砲台の遺構紹介はお終いですが、最後に芋崎南側の白崎鼻方面の高地に残る陣地跡を見に行きます。
道はないので適当に歩いて高地のピークに上がると塹壕がありました。
塹壕の先には方形の窪みがあります。
方形の窪みを見下ろしてみる。
方形の窪みの右側(北側)には円形の窪みがあります。
積石で縁取られた窪みもあります。
史料に記載がないので用途は不明ですが、「対馬要塞物語2」にはこの付近に日清戦争時の乙水雷衛所が置かれていたことが書かれていますのでその遺構かもしれません。はたまた日露戦争時に見張所として使ったか、大東亜戦争時の防空監視哨だったか、、、。
以上、芋崎側防砲台でした。
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[参考文献]
JACAR(アジア歴史資料センター)
・極秘 明治三十七八年海戦史 第1編 防備/第5章 各要港の防備(Ref No.C05110105100)
「現代本邦築城史」第二部 第二巻 對馬要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)
「海軍圖説 訂正第4版」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)
「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)
「明治期国土防衛史」(原著、錦正社史学叢書)
「対馬要塞物語2」(対馬要塞物語編集委員会)
「対馬砲台あるき放題~対馬要塞まるわかりガイドブック」(対馬観光物産協会)
「国土地理院地図(電子国土web)」を加工して使用