今日は水雷衛所北部の砲台跡と枯れ沢沿いに残る水道施設をレポートします。

 

地図で場所を確認します。

 

明治37年(1904年)2月に始まった日露戦争以前、大口瀬戸南部の尾崎半島には陸海軍ともに常設の戦闘施設はありませんでしたので、海軍施設は開戦に合わせて築造、陸軍の砲台は戦時中に起工(完成は戦後)されました。

 

概略はこちら→→【対馬の守り(日露戦争)①~概略

 

この地区に築造された海軍の砲台は聖山(ひじりやま)砲台と呼ばれ、明治37年1月21日着工、2月5日竣工、備砲完了は開戦2日後の2月11日でした。砲台は第一、第二、第三の3ヵ所に分けて置かれましたが備砲は以下の通りです。

 

聖山第一砲台:安式十二斤速射砲2門

聖山第二砲台:安式十二斤速射砲3門

聖山第三砲台:安式十二斤速射砲1門、四十七密保式重速射砲1門

 

「安式十二斤速射砲」は英国アームストロング社(安式)が開発/製造した12ポンド(十二斤)速射砲で、日本では日清戦争(明治27-28年)時に輸入して使われ始めました。口径は3インチ(7.62センチ)、砲身の長さは約3m(40口径長)。魚雷を放とうとちょこまか動く水雷艇を撃退すべく駆逐艦を始めとして多くの軍艦に搭載されましたが、聖山砲台のように陸上砲台としても使用されたようです。

 

安式十二斤速射砲は日本海海戦でバルチック艦隊を破った戦艦三笠にも搭載されていましたので、横須賀の記念館三笠で見ることができます。

 

ちなみにこの火砲は日本国内でライセンス生産され、大正期には仰角を引き上げる改良を施した四十口径三年式八糎高角砲が生み出されました。八糎高角砲は大東亜戦争時には旧式となっていましたが昭和20年の終戦まで使われました。

 

「四十七密保式重速射砲」は、水雷艇など小型高速船から身を守る艦砲として仏国ホチキス社(保式)が開発/製造した3ポンド速射砲です。口径は47㎜(四十七密米突)。日本では安式十二斤速射砲よりも前に導入されましたが各国でも幅広く使われたため、日露戦争では日露両軍がこの速射砲を用いて戦う場面もありました。

なお同砲の軽量版である2.5ポンド砲は「軽速射砲」と命名されましたが、こちらは聖山以外の対馬の側防砲台に設置されました。

 

47㎜重速射砲の砲身が呉市の大和ミュージアムに展示されています。

 

 

 

説明書きにある通り、この砲身は英国アームストロング社がホチキス社から特許を取得して製造されたものです。写真の銘板には「3PR QF」の文字が見えるので、この砲身は3ポンド速射砲つまり重速射砲であることが分かります。

※3PR QFは3-pounder quick firingの略

 

ところでこの速射砲には口径の大きい57㎜も存在しましたが、57㎜、47㎜ともに山内万寿治(やまのうちますじ)海軍大尉が改良型を考案、明治25年(1892年)に採用されて山内速射砲と呼ばれるようになりました。

なお対馬の側防砲台に配備された速射砲は、史料を見ると「四十七密保式重速射砲」と「四十七密山内軽速射砲」と書かれていますので、重速射砲は従来型、軽速射砲は山内改良型だったと推測されます。

 

ついでに書いておくと、山内万寿治さんは明治36年に呉海軍工廠の初代工廠長を務めた後呉鎮守府長官も歴任しました。最終階級は海軍中将です。

 

いつものように前置きが長くなりました(汗)

遺構を見に行きますが、まずは聖山地区に置かれた海軍施設を地図で示します。

水雷衛所は前回紹介しましたが、その北側に聖山第二・第三砲台が置かれており、その後方の谷を下った所に水道施設があります。さらに北西に進むと2つの探海電燈と第一砲台が設置されていましたが、未探索ですので遺構の有無は不明です。次回の渡航で確認しようと思っています。

 

よって今回紹介するのは第二・第三砲台と水道施設です。見取図を掲載します。

 

それでは水雷衛所を後にして馬の背を歩いて砲台に向かいます。

 

海側が滑り台のようになっていますので滑りたくなります。(ならないって?w

 

こちらが聖山第三砲台です。

 

えっ!?どこに?って感じかもしれませんが、海側には胸墻となる土塁が盛られており、内側の地面には円形の窪地が3つ残っています。ちなみに第二砲台も三浦地区に残る砲台もこんな感じ。2週間程度で築造した急造砲台ですからね。

 

3つの円形窪地です。①②③の番号を附ってみました。

 

前方に①と②、間に挟まれてやや後ろに③がありますが、おそらく①と②が速射砲を据え付けた砲床部分ではないかと思われます。では③は何?って感じですが分からないのでスルーしますw

①と②が砲床とすると配備された速射砲は2門となり、安式十二斤速射砲1門、四十七密保式重速射砲1門、合計2門配備だった第三砲台がこれに該当するので、ココが第三砲台跡だと推測しました。史料に書かれている設置標高とも合致しますからね。

 

逆側からも見てみます。

据付部分の砲床はどのように組み立てたのか気になるところです。

なお②の後ろに海軍標石が埋設されています。

 

第三砲台から第二砲台に伸びる道を進みます。

 

道沿いにも海軍標石が埋設されています。

 

第二砲台に到着です。第三砲台より少々高い位置にあります。

 

造りは第二砲台と同じですが、こちらの円形窪地は前方に3つ、後方に2つあります。

 

反対側からも見てみます。

 

前方の円形窪地①②③が速射砲の砲床とすると3門編成ですので、安式十二斤速射砲3門を配備した第二砲台がこれに該当します。

 

第二砲台の後方に地下壕があります。

 

内部は下っていますがそれほど奥には続いていません。

用途は弾薬置場しか浮かびませんが、下っているのがなぁ(・。・;

 

この後第一砲台推定場所まで行くつもりでしたが時間がなくなったので谷を下って引き返したらコンクリート遺構が現れました。

 

遺構は枯れ沢が合流する所に設けられています。この後現れる水道施設(水槽群)の関連施設かもしれません。

 

枯れ沢を辿ると別の支流も合流し1つとなって下っていきます。

 

水道施設の場所に来ました。コンクリートの囲いのような物が見られます。

 

前方より。

 

下流側にも水槽と思しきコンクリート遺構が残っています。

 

1つ目の水槽。

 

2つ目の水槽は長方形の桝?と接しています。

 

この後も枯れ沢沿いを歩いたところ、スタート地点だった兵員棲息施設の場所に無事帰着しました。

 

以上、聖山第二・第三砲台と水道施設でした。

 

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[参考文献]

JACAR(アジア歴史資料センター)

・極秘 明治三十七八年海戦史 第1編 防備/第5章 各要港の防備(Ref No.C05110105100)

・極秘 明治三十七八年海戦史 第4部 防備及ひ運輸通信 巻1、2別冊 第6号 竹敷要港防備図(Ref No.C05110106300)

・極秘 明治三十七八年海戦史 第4部 防備及ひ運輸通信 巻1、2別冊 第114号 竹敷要港部敷設隊聖山仮設物位置図(Ref No.C05110177700)

・極秘 明治三十七八年海戦史 第3編 通信/第4章 望楼(Ref No.C05110109900)

・水雷隊配備表・御署名原本・明治二十三年・勅令第百七十九号(Ref No.A03020078000)

・明治37年2月1日~明治37年12月1日 水雷敷設隊現状報告(Ref No.C10100445300)

・明治36年1月9日~明治36年12月10日 竹敷要港部水雷敷設隊現状報告(Ref No.C10100489600)

・明治35年1月1日~明治36年12月31日 竹敷要港部水雷敷設隊現状報告(Ref No.C10100399200)

・明治35年1月1日~明治36年12月31日 竹敷要港部水雷敷設隊現状報告(Ref No.C10100399200)

・明治34年1月1日~明治34年12月1日  竹敷要港部第1水雷敷設隊現状報告(Ref No.C10100353900) 

「現代本邦築城史」第二部 第二巻 對馬要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原著、錦正社史学叢書)

「対馬砲台あるき放題~対馬要塞まるわかりガイドブック」(対馬観光物産協会)

「国土地理院地図(電子国土web)」を加工して使用