宗像の大島には10回以上渡島していますが、砲台の記事は4年前に書いて以来更新していませんので、この度全面的に書き直します。

 

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「大島」は福岡県宗像市神湊(こうのみなと)の北西約6.5kmの沖に浮かぶ島で、「筑前大島」、「宗像大島」とも呼ばれています。約500人が住む周囲約15㎞の島ですが、大東亜戦争中には陸軍の砲台や海軍の防備衛所が置かれていました。

 

昭和15年の下関要塞砲台配置図で場所を確認します。

 

大島全景。

 

大島は響灘と玄界灘の境界に位置しており、響灘が担当海域だった陸軍の下関要塞がこの島に砲台を構築しました。

 

簡単な履歴は以下の通りです。

◆起工:昭和10年(1935)5月1日

◆竣工:昭和11年(1936)11月20日

◆備砲:四五式十五糎加農 改造固定式  4門 (昭和11年11月 備砲完了)

◆射撃の首線:真方位335度(北北西)

◆砲座標高:148m乃至150.63m

◆任務:蓋井島砲台、白島砲台、小呂島砲台と協力し響灘及玄界灘に於ける敵艦船の行動を妨害し我が海上交通を援護するに在り

◆下関要塞の概略はこちら→→→

※訪問:初回/2020年8月、最新/2024年4月

 

四五式十五糎加農改造固定式の大射角姿勢 (「日本陸軍の火砲 要塞砲」より引用)

 

日米風雲急を告げる昭和16年7月7日、下関要塞に準戦備が下令されました。かねてよりの動員計画に基づき下関要塞重砲兵聯隊は各砲台に分かれて配置に就きましたが、大島砲台には第二大隊第六中隊が派遣され、戦備を整えたのち大東亜戦争に突入しました。

 

戦時下において要塞砲台が実戦射撃をしたのは非常に少ないのですが、戦争3年目の昭和19年5月、海軍の防備衛所が敵潜水艦を探知し、大島砲台が射撃を行ったことが『下関重砲兵聯隊史』に書かれています。

 

昭和20年になると、本土決戦に備えて各要塞に配備されていた火砲を洞窟陣地に転移する命令が下りました。大島砲台の十五糎加農は、2門を島内の津和瀬に、2門を本土の垂水峠に転移することになりましたが、作業を進める中で終戦を迎えました。

 

(参考記事)

 

 

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それでは現地に向かいます。

大島に渡るには宗像市の神湊港から定期渡船を利用します。旅客船だと15分、フェリーだと25分の船旅となります。

 

旅客船「しおかぜ」

 

上陸後砲台跡までは自転車を借りて行くのが手っ取り早いですが、渡島する時期によっては平日でも全車貸出中のことがありますのでご注意を。

 

電動アシスト自転車。

 

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桟橋から自転車を漕いで約20分で砲台跡に到着しますが、ここで1975年の空撮で砲台周辺を見てみます。

 

P150高地付近に砲台が設けられていますが、その後方に兵員の棲息施設があったと思われます。空撮にはコの字の土塁状の地形が確認できますので火薬庫が置かれていたのかもしれません。ただ、この周辺は乗馬クラブの敷地となっていますので遺構は残っていません。

なお、棲息施設西側には掩体や塹壕のような地形が写っており、現地調査においても確認しました。機銃座が設けられていた可能性があります。

 

コの字型土塁の場所は放牧地になりました。

 

機銃座の場所には掩体や塹壕が確認できましたが、ヤブが濃いので詳しく見ていません。

 

掩体っぽい窪み。

 

塹壕っぽい窪み。

 

棲息施設跡の北西はトイレ付きの駐車場になっていますが、隣接する広場に日本海海戦・戦死者慰霊碑が建てられています。

 

日露戦争における日本海海戦(明治38年5月27-28日)は日本の勝利で終わりましたが、大島には露西亜兵の遺体が数多く流れ着いたことでしょう。以下、参考記事です。

 

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砲台の見取図を描きましたので掲載します。

 

4つの砲座と附属する砲側庫、さらに観測所も状態良く残っています。砲台跡は海を望む風光明媚な場所にあり観光資源として整備されていますので、全国でも一二を争う美しい砲台です。

 

観測所の上から第3砲座、風車、そして玄界灘を望む。

 

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まずは4つの砲座から見て行きます。第1砲座です。

 

十五糎加農砲台ではよく見かける形状のコンクリート製胸墻の砲座で、砲床が一段高くなっています。

 

第1砲座から観測所を見ています。

 

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第2砲座です。

 

第1砲座とは異なり二段構造の胸墻となっています。

 

第1砲座と第2砲座の間に標柱?が埋設されています。射界標柱かと思いましたが、表面には何も刻まれていませんし戦後物のような気がします。

 

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第3砲座は第2砲座と同型の二段構造です。なお砲床に立っているのは2024年4月時点で展示中だったアート作品です。

 

第2砲座と第3砲座を繋ぐ交通壕です。写真は第2砲座側から第3砲座を見ています。

 

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第4砲座は牧場側にあるためか整備されていません。

 

段差なしの胸墻です。第1砲座と同型ですね。

 

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4つの砲座を見てきましたが、内側の第2砲座と第3砲座が二段構造、外側の第1砲座と第4砲座が段差無しの構造であることが確認できました。これは前回レポートした小呂島砲台とまったく同じ構造です。

昭和10年2月の砲台着工前の史料を紐解くと、「砲座は二門分を築設し、所要に応じ更に二門分を増加し得る如く考慮す」と書かれていますので、4つの内2つの砲座は追加分と言うことになります。

おそらく内側の2段構造の2基が当初の砲座、外側の段差無しの2基が追加の砲座だと推測していますが、なぜ異なる形状で構築したのでしょう?考えられる理由を探ってみます。


備砲の四五式十五糎加農の固定砲床型には「改造固定式」「改造固定式㊕」と言う2種類が存在しました。

『日本陸軍の火砲 要塞砲』に掲載の図面では、「改造固定式」が“段差なし”の砲座、「改造固定式㊕」が“段差あり”の砲座と見て取ることができますので、最初は各々2門ずつ据え付けたのではないかと思いましたが、複数の史料にて「備砲は改造固定式 4門」であることが確認できますのでそれは違うかと。

当初「改造固定式㊕」を据付予定が「改造固定式」に変更になったので、追加の砲座は“段差なし”で造られた...と考えるのがスムーズですが、推測の域は出ません。

 

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砲座の考察は以上ですが、3年前に開催された「下関要塞展」にて、大島砲台の射撃訓練時の写真が展示されていました。下記写真がそうですが、火砲を覆うように偽装されていることが分かります。

 

同展覧会では、写真以外に大島砲台関連の2つの展示物がありました。

 

実際に使用された薬莢。戦後切断されたので本来の1/3程度の長さだそうです。

 

象限儀。

 

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次に砲側庫を見ていきます。

各砲座に1つ附属しており、弾薬庫(弾丸置場)と砲具置場で構成されています。

 

第1砲座附属の砲側庫①です。

 

中に入ります。

 

奥の部屋が弾薬庫、手前のスペースが砲具置場と思われます。

 

砲具置場です。小呂島には「砲具置場」の文字が書かれていましたが、こちらには残っていない(最初から書いていなかった?)ですね。

 

弾薬庫の入口を見ていますが、気になるのは矢印の所です。

 

保護金物置場と書いてあります。

 

この言葉は4つの砲側庫すべてに書かれています。保護金物は破損を防ぐための金具の意かと思いますが、実際どのような物を置いていたのか皆目見当がつきません。

 

字が小さいので3回目?の訪問の時まで気づきませんでした(^^;

 

弾薬庫(弾丸置場)の内部です。

 

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第2砲座と第3砲座に附属する砲側庫②と③は並列で観測所下に設けられています。

 

第2砲座側から入ります。

 

第2砲座附属の砲側庫②です。左が砲具置場と右が弾薬庫です。

 

弾薬庫の出入口に保護金物置場と書かれています。

 

第3砲座付属の砲側庫③です。内部は4つとも同型です。

 

西側(第3砲座側)の出入口付近に残る木材。矢印の所に文字が確認できます。

 

二?...読めない...。

 

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最後は第4砲座付属の砲側庫④ですが、内部は砲側庫①と同じですので写真は割愛します。

 

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ここでその1を終わります。その2では観測所などをレポートします。

 

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[参考文献]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「下関重砲兵連隊史」(下関重砲兵連隊史刊行会)

「日本陸軍の火砲要塞砲」(佐山二郎著、光人社ノンフィクション文庫)

「四五式15糎加農(改造固定式)及同(特)細部図送付の件」(Ref.C01001502200 アジア歴史史料センター)

「下関要塞守備隊戦史資料 昭20.11.25」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「第351師団戦史資料 大東亜戦争 昭20国土決戦 昭20.11.25」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「〔15HA〕」(Ref.C14061066300 アジア歴史史料センター)

「」(Ref No. アジア歴史史料センター)