明治30年代、陸軍は北九州市門司区の砂利山周辺に長谷(ながたに)弾薬本庫と砂利山(じゃりやま)框舎を建設する計画を立てました。弾薬本庫は明治32年(1899)に竣工、砂利山框舎は経費の関係で明治34年(1901)に建設中止となりましたが、明治32年7月制定の「要塞地帯法」によって、この2つの防御営造物を囲む第一区要塞地帯が設定されました。
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(砂利山框舎交通路のレポートと要塞地帯標の概略)
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明治43年(1910)の要塞地帯図で見てみます。
(「よしみ史」付録下関要塞地帯図より引用・抜粋)
2つの防御営造物は近接していたため、1つの第一区要塞地帯として設定され、10本の標石で囲われていました。なお東から南にかけて第二区地帯の区割線が走っていますが、標石の探索は行っていません。
続いて古地図で要塞地帯を示します。
(時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」より作成)
第一区は赤線、第二区は桃色ですが、第一区地帯を囲む10本の標石のうち確認したのは3本となります。
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まずは第二号標石です。
現存する下関要塞地帯標の中では唯一説明看板が設けられています。
細い道沿いに立っていますが、この道は長谷弾薬本庫に至る軍道でした。
なお文字に黒く塗られていますが、あまりにもはっきりしていますので後世に塗られたものと思われます。矢筈山の標石は白色でしたがこちらは黒色ですね。当時は白色を下地に塗ってその上から黒色を入れていたと推測しています。
表面の“S.M. 1st Z 下關要塞第一地帯標”と右面の“第二号”です。
左面の“明治三十二年九月一日”と裏面の“陸軍省”の写真は割愛します。
なお長谷弾薬本庫を囲んでいたのは第1号から第6号でした。(1号と6号は砂利山框舎の区域と共有)
第1号と第6号の推定場所は探索しましたが見つかりませんでした。第3~5号の場所は未探索ですが住宅地となっているので厳しいかな。とは言え、この第2号のように住宅地でも残っていることもありますので、歩いてみないことには分かりません。
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次は砂利山框舎側を見に行きます。
こちらは山の中に2本立っています。古地図を見ると当時は生活道(登山道)だったようですが、現在では道は消えています。
第九号標石です。山頂にあると予想しましたが、実際は山頂から南に下った平坦地で発見しました。
表面の“S.M. 1st Z 下關要塞第一地帯標”です。パッと見“第ニ”に見えるかもしれませんが、削れているだけなので“一”が正解です。
右面の“第九号”。
左面の“明治三十二年九月一日”と裏面の“陸軍省”です。
この後は山頂に登り返して、北側の第七号標石を探しすために下っていきましたが、見事に推測した通りの位置で発見しました。いや~ピタリ当てると気持ちいいですよね(・∀・)
第七号標石です。第九号標石は平坦地でしたが、こちらは斜面にあります。
写真は山側から撮影していますので裏面の“陸軍省”が見えています。つまり表面の“下関要塞第一地帯標”を谷側に向けて立っているわけですが、標石は登ってくる人たちに対して要塞地帯の区域を示すために植設されていますので、当然と言えば当然の配置ですね。
表面の“S.M. 1st Z 下關要塞第一地帯標”と右面の“第七号”です。
左面の“明治三十二年九月一日”と裏面の“陸軍省”です。
砂利山框舎側の標石は第1号と第6~10号の6本ですが、そのうち2本を発見、2本は探索で見つからず、2本は未探索です。未探索の第八号と第十号はあらためて探しに行きます。
以上、長谷弾薬本庫・砂利山框舎予定地の第一区要塞地帯でした。