久しぶりの下関要塞ネタです。

北九州市門司区に聳える標高253mの砂利山(ざりやま、じゃりやま)には、明治中期に「砂利山框舎」を建設する計画がありました。実際のところは建設されなかったのですが、框舎に至る交通路が現存していますのでレポートすることにしました。

なお「軍道」ではなく「交通路」としていますが、史料では「交通路」となっていますので、史料通りに書いていきます。

 

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まずは框舎(きょうしゃ)を説明します。

明治32年(1899)の史料「堡塁砲台構造ノ様式」では、框舎について以下の通り説明されています。

 

1.框舎の目的は、その地点の占領を確実にし、或いは砲戦砲台を援護し、またはこの両任務を併有することにあり

2.框舎の編成は通常左の如し

(1)機関砲 約4門(要すれば小口径(7糎半以下)、速射砲約2門を加ふ)

(2)守兵 約2分の一小隊

(3)単簡有威の自衛を要す

(4)框舎の構造は敵弾殊に垂直射撃に対し安全なる穹窖式とす。而してその細部の設備は側防框舎の例に準ず。但し陸正面の框舎をして露天となす時は、その胸墻は比頓製(※コンクリート製)とし、砲及び砲手の掩蔽部を設くるを要す

 

いまいちピンと来ないですね(^^;

ごく簡単に言えば、堡塁が加農砲などを複数配備した永久防御が可能な砦であるのに対し、框舎は少数の機関砲をもって防御する堡塁よりも小規模な陣地...かな。

框舎の遺構を確認したことがないので構造は不明ですが、様式の説明にある通り、横穴掘ってソコに砲座を設ける穹窖式だったり、はたまた露天砲座だったり、その場所の特性や地形によって様々な形があったのではないかなと。トーチカの先駆けみたいなもんと言っておけば頷けるでしょう。。。知らんけど。

 

いくつかの史料を読むと、1つの框舎に機関砲は2~4門で、明治37-38年の日露戦争では、保式機関砲の配備が主流のところ、旧式のガトリング機関砲も使われていたようです。

ガトリング機関砲とは手で把手を回したらバババババっと連射できるヤツね。(語彙力よ...w)ググったら撃ってる動画があったので貼っておきます。

 

 

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下関要塞では明治20年(1887)から堡塁砲台の建設が開始されましたが、企救(きく)半島の陸正面防御においては、当初の計画から堡塁の建設とともに框舎の設置も検討されていました。

 

築城された堡塁砲台と、建設予定だった堡塁・框舎の配置図です。今日取り上げる砂利山は企救半島の北側に位置しています。

 

企救半島の陸正面防御は、主に周防灘方面(図の右側の海)から上陸して攻めてくる敵兵を撃退することにありました。計画では4堡塁4框舎が建設される予定でしたが、4つの框舎すべてが経費の関係で明治34年(1901)に建設中止となりました。

なお現在の若松/八幡地区(洞海方面)にも堡塁・框舎を設ける計画でしたが、こちらもまた同年に中止されました。

 

ちなみに4つの框舎の備砲予定は以下の通りでした。

妙見山頂框舎・戸ノ上山框舎・砂利山框舎は機関砲各2門、風頭山框舎は3門

 

参考までに下関要塞の概略を貼っておきます。

 

以上のように砂利山框舎は建設されませんでしたが、框舎に至る交通路の工事は実施されていました。

史料を読むと、明治31年(1898)9月以降、敷地の買収を行った上で砂利山交通路の建設工事が始まり、近隣に置かれていた長谷(ながたに)弾薬本庫の門前から砂利山山頂に至る総延長1,502m、幅2.3mの交通路が作られたようです。

 

現在の弾薬本庫跡地は庭球場と宅地になっていますが、交通路は舗装道路となって砂利山中腹の霊園まで伸びています。霊園から山に入ると交通路が当時の状態で700mほど残っていますが、山頂手前で道が消失します。おそらく工事が中止になったからだと思われますが、『現代本邦築城史』には竣工年月日として「明治32年〇月24日」(※〇は判別不能)との日付が書かれています(・_・;)アレ?

 

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若干腑に落ちませんが、気を取り直して現地を訪れます。

地図に砂利山交通路を描き込んでみました。

 

交通路の点線部分はアスファルト道路となっていますが、道路から分岐して山に入ると当時の交通路が現れます。道沿いや山頂の周囲には陸軍境界標石が複数埋設されています。

なお、砂利山框舎は要塞地帯法で定められた国防用防御営造物ですので、下関要塞地帯第一区に指定されていました。探索の結果、要塞地帯標を2本発見しましたが、これについては別エントリーで書く予定です。

 

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ここから山に入ります。

 

ゴミを乗り越えていきます(;'∀')

 

ゴミを乗り越えると道が現れました。谷側には石垣が築かれています。

 

少し進んでから見てみる。

 

幅広の道を緩やかに上がっていきます。

 

道の谷側にまず最初の境界標石を見つけました。ボケていますが“陸”の文字が彫られています。

 

頭頂部には陸軍を示す“M”も見られます。

 

では先に進みます。

 

道の山側を見ると排水溝と排水桝が作られています。

 

2本目の境界標石。道は上方にあります。

 

頭頂部の“M”です。

 

3本目の標石には裏面に“防”の文字があります。

 

斜めっていますが、表面は“陸”です。

 

通常、“防”の後に通し番号の数字が続きますが、この石にはありません。やはり框舎の工事中止が理由なのかな。

ちなみに確認した境界標石は11本でしたが、9本は“陸”と”M”、2本は“陸”と“防”の表示でした。なお後者には頭頂部に“M”はありません。

 

右にカーブを取って折り返してあがっていきます。なおカーブをする部分は道が広めに作られています。

 

カーブする所に標石が3本ありましたが1本だけ掲載。

谷側に埋設されている標石を見るために、道を下ってまた上がっての繰り返し...結構これは疲れます(^^;

 

カーブした先は塹壕のように掘られた感じになっています。

 

塹壕部分を通り過ぎて進みます。

 

見難いですがココにも排水溝が設けられています。

 

2回目の折り返し。

 

もう1回折り返したら山頂かな、と言った感じでしたが、、、。

 

道が消えてしまいました(゚Д゚;)

 

消えた所から来た道を振り返る。

 

仕方ないので直登して253mピークの山頂に到着です。

 

框舎を造っていたわけではないので山頂には痕跡はありませんが、昔の三角点が埋設されています。ちなみに現在の砂利山三角点は南東の246mピークに置かれています。

 

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ところで、陸軍境界標石は交通路沿いだけではなく253mピークの山頂を囲むように埋設されています。框舎建設予定地をちゃんと囲んでいたと言うことですね。

 

北側の標石です。

 

次は南西側の標石。

 

隣に門司市の標柱も埋設されています。

明治32年(1899)4月1日、企救郡門司町は門司市となりました。その後市制は60年余り続きましたが、昭和38年(1963)2月、八幡市、戸畑市、若松市、小倉市と合併して北九州市となり、門司区として今に至っています。

 

南東側。

 

最後は南側ですが、これだけが“防”の標石です。

 

“防五…”と読めます。通し番号が刻まれていますが、スコップを持参していなかったので“五”の一文字しか確認できませんでした。

 

以上で軍道歩きはお終いですが、最後に下関要塞第一地帯標を載せておきます。

 

今回2本発見しましたが、砂利山を囲んでいたのは6本でしたので、またあらためて探しに来たいと思っています。

 

以上、砂利山框舎に至る交通路でした。