2023年10月1日、陸上自衛隊山口駐屯地記念行事における一般開放にて、寺内元帥像の銘板の特別展示がありましたのでレポートします。

 

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寺内元帥とは元帥陸軍大将 寺内正毅(まさたけ)のことです。本ブログでもたくさん登場して頂いていますね(^^)

 

(『寺内正毅とその周辺』の表紙より引用させて頂きました )

 

まずは寺内さんの紹介を簡単に。

 

嘉永5年(1852年)、長州藩士宇多田正輔の三男として旧平井村(のち平川村、現在の山口市平井)に誕生。幼名は寿三郎。8歳で母方の寺内勘右衛門の家督相続人として養子となり、平井から旧宮野村に移住。(現在の山口市桜畠付近。誕生地から6㎞くらい離れた場所)

 

若い頃より長州藩諸隊に属して各地で戦い、戊辰戦争、五稜郭の戦いにも従軍。維新後は大村益次郎に認められて大阪の兵学寮で学び陸軍軍人として歩む。明治4年(1871年)に正毅に改名。明治10年(1877年)の西南戦争で負傷し右手の自由を失う。

 

その後は第一線の部隊に出ることなく軍政や軍人教育に尽力し、フランス留学から帰国した後はキャリアを重ね教育総監、参謀本部次長、陸軍大学校長を経て、明治35年(1902年)には第1次桂内閣で陸軍大臣として入閣した。

 

日露戦争後の明治39年(1906年)には大将に昇進。第1次西園寺、第2次桂内閣でも陸相を務めるとともに、明治43年(1910年)には韓国統監を兼任。韓国併合が実現された後、新たに設置された朝鮮総督府の初代総督に就任して韓国を統治した。

 

大正5年(1916年)に元帥となり、同年10月に朝鮮総督を辞任して内閣総理大臣(第18代)に就任。在籍時にはシベリア出兵を宣言する対外政策(大正7年)を行ったが、護憲運動が高まりを見せる中で強権を発動する非立憲な政策は民衆の非難を浴び、大正7年(1918年)に米価高騰から全国的な暴動事件に発生した米騒動の責任をとって同年9月に総辞職した。翌大正8年(1919年)11月、持病の悪化により死去。享年68歳。

 

関連記事は以下の通りです。

 

 

 

駐屯地内の防長尚武館には寺内元帥親子の遺品が数多く展示されています。

 

この他にも、寺内正毅が揮毫した戦跡記念碑や忠魂碑が山口県内には数多く残っています。

 

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それでは寺内元帥像ついて説明します。

 

大正8年11月に寺内元帥は亡くなりましたが、その翌月には早くも有志による銅像建設の計画が持ち上がり、大正12年(1923)5月6日、元陸軍用地である東京・三宅坂の皇居お濠端に建立されました。

立派な騎馬像が建ちましたが、当時は不景気でしたので大金を投じての建設に反対の声が多く、しかも建つ場所が宮城向いの一等地でもあったため、官僚軍閥の像が建つのはいかがなものかとの批判もあったようです。

 

昭和4年の地図にて場所を示してみました。赤丸の所です。

(「今昔マップ on the web」より昭和4年の地図を引用させて頂きました )

 

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さて、寺内元帥像の作者は長崎県出身の彫刻家・北村西望(せいぼう)です。戦前には寺内像以外にも山縣有朋騎馬像や児玉源太郎大将騎馬像など戦意高揚に繋がる作品を多く手がけましたが、戦後は平和、自由をテーマとして制作に取り組み、昭和26年(1951)には長崎平和公園の平和祈念像を完成させました。

 

寺内元帥の上司であり長州閥の首領だった山縣有朋の騎馬像は萩市に現存しています。参考までに過去記事を貼っておきます。

 

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寺内元帥像の建つ場所は三宅坂を走る路面電車からもよく見えていたようですので、国民の間で慕われ、、、たかどうかは分かりませんが(^^;、大東亜戦争が開戦されると金属供出で元帥像もご奉公に出ることになり、昭和18年(1943)に撤去されました。

これ以降台座は空のまま置かれていましたが、戦後この台座の上に、「平和の群像」と名付けられた女性裸体像が昭和26年(1951)に建立され、現在に至っています。

 

と言うわけで台石の上に建っていた銅像は現存しませんが、小さな試作の銅像は井の頭自然文化園に残っているようです。そしてそのレプリカが陸上自衛隊山口駐屯地の防長尚武館に置かれています。

 

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さて、今日紹介する寺内元帥像の銘板ですが、この銘板は銅像の建つ台座に掲げられていました。戦後、進駐軍の指示により撤去された後、千代田区麹町の土木事務所倉庫に保管されたままになっていましたが、平成10年(1998)の倉庫解体で発見され、寺内家の希望により、翌年、陸上自衛隊山口駐屯地内の防長尚武館に遺品の一つとして寄贈されました。

 

銘板が遺品として置かれていたことは知りませんでしたが、今年は銅像建立100周年にあたりますので、令和5年(2023)10月1日の記念行事における一般開放時に展示されることになったようです。

 

展示場所に今書いたことが記載されています。

 

こちらが寺内元帥像の銘板です。

 

銘板は矢印の部分にはめられていました。

(現地説明看板より抜粋・加工)

 

銘板をヨリで。欠損と亀裂がありますが、状態はよさそうです。

 

レプリカ品も置かれていましたが、倒れないかちょっと心配でした(^^;

 

以上、寺内元帥像の銘板の紹介を終わりますが、説明板に特別展と書かれていますので、防長尚武館に行けばいつでも見れるわけではないのでしょうね。今回見ることができてよかったです。展示して頂きありがとうございました(^^)

 

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最後に記念行事での観閲行進の写真を何枚か掲載します。

 

 

七四式戦車は来年3月で退役しますので、山口駐屯地で見れるのも今年が最後でした。

 

 

米軍のヘリも飛来しました。

 

以上おしまいです(・∀・)

 

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