前回に続き寺内元帥関連の遺構を紹介します。

 

まずは「桜圃寺内文庫」(おうほ てらうちぶんこ)ですが、本ブログで取り上げている所謂「戦争遺跡」ではないので、サクッと紹介するだけにとどめます。

 

桜圃寺内文庫は寺内家の私設図書館です。寺内正毅さんが設立の構想を練りましたが大正8年(1919年)に病死したため、息子の寿一さんがその遺志を引き継ぎ、大正10年(1921年)11月に完成させました。

 

なお名称の「桜圃」ですが、前回も説明した通り正毅さんが持っていた書道の雅号で、旧宅のあった宮野村桜畠(さくらばたけ)の地名にちなんで付けられました。つまりこの文庫が建つ場所ですね。現在は山口市桜畠となります。

 

さて、文庫では正毅さんが主に朝鮮で集めた書物などを中心に約1万9千冊の蔵書を一般の人たちに公開しましたが、大東亜戦争の終戦後に寿一さんが病死したことによって文庫の経営が難しくなりました。そこで昭和21年(1946年)に隣接する山口女子専門学校(のち山口女子大学で現在の山口県立大学)の図書館として貸し出すことになり、昭和32年(1957年)には県との間に売買契約が締結されて土地と建物は県に移管、蔵書は寄付されました。その後大学附属図書館として使われましたが、昭和53年(1978年)、大学が図書館を新設したことによってその役目を終えることになりました。

それから40年以上が経ち、保存や活用について議論されてきたようですが結果何も動くことはなく、、、。傷みが激しそうだから近代遺産として公開するのも簡単にはできないのでしょう。お金もかかりますからね。今年は竣工からちょうど100年。何かしら今後の方向性を聞きたいところです。

 

当時の門柱は健在。その後ろに石碑が立っています。

 

石碑には藤田鴻輔陸軍中将による正毅さんの生涯が書かれています。

ちなみに藤田鴻輔さんは萩市出身の軍人で下関要塞の司令官などを歴任しました。正毅さんが統監を務めた朝鮮統監では副官で、能書家でもあったことから正毅さんと親交が深かったのかもしれませんね。なお藤田さんは幕末の長州志士の顕彰に努め、久坂玄瑞などの石碑にも揮毫者としてその名を見ることができます。

 

 

桜圃寺内文庫の向かって左側の交差点に1本の標石が立っています。

「寺内元帥墓地 従是 北五丁」と書かれています。つまり、元帥の墓地はここより北に約545m行った所にあるよ、と言うことです。(1丁は約109m)

 

と言うことで寺内元帥墓地にやって来ました(・∀・)

ここの標石には「此山上 一丁」(この山の上 約109m)とあります。

 

左の階段を上がると寺内元帥の墓地、と言うか寺内家の墓所となります。

なお右を進むと山崎陸軍墓地ですが、これについては次回紹介します。

 

説明書き。

 

階段を上がりました。

 

元帥陸軍大将伯爵寺内正毅之墓です。

 

正毅さんについては前回のブログ記事をどうぞ。

 

左隣に正毅さんの息子寿一さんのお墓があります。

 

寺内寿一(ひさいち)は、正毅の長男として明治12年(1879年)に東京で生まれ、幼少期には父のフランス留学により宮野の伯母の家で過ごす。その後東京に戻り陸軍軍人としてキャリアを重ね、大将に昇進後の昭和11年(1936年)には広田内閣で陸軍大臣として入閣を果たす。

盧溝橋事件から中国との戦争に突入した昭和12年(1937年)には北支那方面軍の司令官に、続いて昭和16年(1941年)には南方軍総司令官となり、大東亜戦争終戦の昭和20年(1945年)まで在任した。昭和21年(1946年)、マレーシアのレンガムで拘留中に病死。享年68歳。

 

簡単に息子の寿一さんについて書きましたが、無能、我儘、親の七光りなどなど、悪い評価が多いお方のようで。まぁ評価はともかくとして、寿一さんは昭和18年(1943年)に元帥府に列せられましたが、親子で元帥になった例は世界的に見ても珍しいことだそうです。

この時に賜った元帥刀が陸上自衛隊山口駐屯地の防長尚武館に父の物と一緒に展示されていますので、ご興味ある方はぜひ見に行かれて下さいね。

 

では寺内親子のお墓越しに山口市市街地を見下ろして終わりとします。

 

以上、寺内元帥墓地/桜圃寺内文庫でした。

 

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