笠戸島の再訪記、続いては笠戸防空砲台をレポートしていきます。

 

戦後米軍が撮影した空中写真を掲載します。

(国土地理院 空中写真閲覧サービス USA-M114-37、1947年3月)

 

◆参考リンク:【徳山海軍警備隊の要図・概略】【深浦照聴所】【発電所

 

「笠戸防空砲台」は、高壺山から東に伸びる稜線上に構築されました。標高230mに高角砲の砲座、203mピークに聴音機と探照灯が置かれました。登山道沿いにありますので遺構を見ながら歩くことができます。

 

では最初に『戦時日誌』を辿りながら履歴を書いていきます。

 

大東亜戦争開戦から1年を経過した昭和18年になると、空襲に備えた防空砲台の増設が各地で始まりました。呉軍港や徳山要港の防空を担う呉海軍警備隊においても複数箇所で砲台建設に着手することになりました。「笠戸防空砲台」もその一つで、昭和18年初頭から基礎工事が始まりましたが、2年以上が経過した昭和20年5月の『戦時日誌』を見ても「工事中」となっています。

6月以降の戦時日誌は存在しませんので完成して運用されたかどうかは不明ですが、戦後の『引渡目録』では「四十口径八九式十二糎七連装高角砲 2基」が記載されています。笠戸と同じく工事中で終戦を迎えた太崋山防空砲台においても装備予定だった高角砲が記載されていましたが、但し書きとして「未装備中」とありました。笠戸はそのように書かれていませんので、装備は済んで射撃可能だった、、、と推測します。

 

その他の装備として、十三粍単装機銃1丁(昭和20年5月の戦時日誌)、百五十糎探照灯と仮称ヱ式空中聴測装置(聴音機)が各1基(引渡目録)を保有していたようですが、遺構を確認したところ、探照灯の据付台座にはアンカーボルトが打たれた痕がなく、また聴音機は台座自体が置かれた形跡がありませんでした。こちらは工事中で終戦を迎えたのかもしれませんね。

 

では遺構を見ていきます。

まずは砲座周辺と兵舎の施設配置図を掲載します。

 

東から登山道を歩いてくるとレンガ造りの「指揮所」が現れます。

 

側面から。後方は土砂が流入しています。

 

内部。

破損が目立ちますし、内部は仕切りもなくがらんとしています。

 

梁のコンクリートがたわんでます(・。・;

 

ずいぶんと長い庇ですね。

庇ではなく別の用途があったように思えてなりません。

 

照聴所の指揮所くらいの大きさですが、防空砲台の射撃指揮所としてはあまり見ない形のような気がします。

 

登山道はこの「指揮所」の横を上がっていきますが、上がって振り返ると「指揮所」の頭部分が露出しているのが見えます。

他の地域の防空砲台を見ても、射撃指揮所は砲座のある部分から一段下に置かれることが多いですね。

 

上の写真を撮った周辺にはいくつかの掩体(円形窪地)が掘られています。なお施設配置図では「掩体群」として記載した場所となります。

 

2つの掩体が塹壕で繋がっていますが、そのうちの北側にある1つ。

内部は石積みで囲われていたようです。一部残っています。

 

外側から見ています。土塁状に土が盛られているのが分かります。

 

「指揮所」を背にして西側を見ています。

道がまっすぐ伸びていますが、この右手にもう1つ円形の掩体があります。

 

こちらです。

内部は石を積んで囲われているのがよく分かります。

 

入ってみた。

 

円形もしくは方形の掩体は防空砲台ではよく見かけますが、これらの用途としては、高射装置、測距儀、対空双眼鏡を使った見張り、小隊長の指揮位置などが考えられます。また、笠戸には十三粍単装機銃1丁の配備記録もあるので、機銃座として使われた掩体もあったかもしれませんね。

 

以上で【その1】終了です。次回は砲座と弾薬庫を取り上げます。

 

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[参考資料]

「JACAR(アジア歴史資料センター)」

・呉海軍警備隊戦時日誌(Ref.C08030470300~C08030475700)

・徳山海軍警備隊戦時日誌(Ref.C08030476000~C08030476200)

・兵器目録(C08011396900)

「徳山要港防備図でたどる周南の戦争遺跡」(工藤洋三)

「国土地理院 空中写真閲覧サービス」