笠戸島の防空砲台と照聴所を再訪しましたので、施設配置図を掲載するとともに記事の書き換えを行っていきます。

 

下松市沖に浮かぶ笠戸島には、開戦直後に「深浦特設見張所(照聴所)」が、戦争末期には「笠戸防空砲台」が設置されました。

 

◆参考リンク:【徳山海軍警備隊の要図・概略】【笠戸防空砲台】【発電所

 

戦後米軍が撮影した空中写真には各施設がはっきり写っていますので、名称を付与して掲載します。

(国土地理院 空中写真閲覧サービス USA-M114-37、1947年3月)

 

ではまず「深浦特設見張所(照聴所)」をレポートしますが、最初に『戦時日誌』を辿りながら履歴を書いていきます。

 

「深浦」は大東亜戦争開戦時は工事中で、昭和17年(1942年)2~3月ごろに完成したと思われます。徳山界隈に構築された照聴所と同じく、九六式百五十糎探照灯と仮称ヱ式空中聴測装置(聴音機)各1基を装備して対空警戒の任務に当たりました。

 

戦争後期の昭和19年になると、電波探信儀(レーダー)を配備すべく工事が始まり、同年12月には、灰が峰探信所にある2式1号1型電探(通称:11号電探)を移設、昭和20年2月には3式1号3型電探(通称:13号電探)を新設して配備が完了しました。

なお戦後に纏められた『引渡目録』では探照灯と聴音機が掲載されていませんでしたので、この2つの装備は防空砲台に移設した上で、聴音所から電波探信所として生まれ変わったと思われます。

 

さて、「深浦」は開戦以来呉海軍警備隊徳山分遣隊の一員として名を連ねていましたが、昭和19年10月20日、呉海軍警備隊から独立する形で徳山海軍警備隊が新設されました。これに伴い徳山界隈の防空砲台や照聴所は「呉」から「徳山」の所属になりましたが、そこに「深浦」の文字はありませんでした。隣接する「笠戸防空砲台」は「徳山」所属なのになぜでしょう?

ちなみに、深浦照聴所は「笠戸探信所」と名前を変えて昭和19年10月以降の呉警備隊戦時日誌に登場していきます。もしかして「探信所」はすべて「呉」の所属で統一したのかもしれませんね。

 

前置きが長くなりましたが、「深浦」の施設配置図を掲載します。

標高255mの高壺山の山頂から南西に伸びる尾根上に構築されています。

 

東側から登山道を歩いて山頂に到着すると、まずは円形窪地が目に入ります。

炭焼き窪では?と言われればそれまでですが、「機銃座跡?」としています(^^;

 

山頂表示と三角点です。この左側から下っていきます。

 

下るとすぐ「1槽式水槽」が現れます。

 

その直下に「3槽式水槽」。よくあるセットですね。

 

水槽を下ると兵舎の平坦地に降り立ちます。そしてまず目に入るのはコレ。

用途不明ですが、この遺構の外側に排水溝がありますので水を張っていたのではないかと思われます。

 

そしてこの遺構の横にあるのがコンクリート基礎が残る「建物跡?」です。

水槽1基が付属する小さな建屋と言った感じです。ポンプ室かもしれませんね。

 

続いて「烹炊所・風呂・便所」の区画を見ていきます。

 

まずは「便所」です。大の便槽が3つ確認できます。

 

こちらは「風呂」です、、、と言われてもよく分かりませんよね(^^;

 

焚口のような開口部が見られますので風呂としました。

 

「烹炊所」の流し台です。

 

残念ながらカマドは壊されています。

 

兵舎と烹炊所の間に洗面台が2つ顔を突き合わせていますが、破損が酷いです。そのうちの1つ。

 

ここでふと気づきました。この洗面台が向かい合う光景は、前回レポートした向道照聴所の生活施設と同じだと。そればかりか、烹炊所、風呂、便所、そして兵舎、、、どれを取ってもほぼ同じ配置となっています。

 

洗面台付近から「兵舎」を見ています。

藪っていますが、廊下だった部分がまっすぐ伸びているのは分かります。なお建物の間取りは施設配置図に書いた通りです。

 

藪の中の兵舎基礎を載せても仕方ないので先に進みます。

小高い部分の裾を左から回って進むと、斜面に崩落した地下壕と思われる痕跡を見つけたので下りてみました。完全に塞がっているなぁと思いつつさらに先の方を見ると、もう1か所あったので行ってみたところ、、、

 

穴あいとるやん(・∀・)

 

さっそく入ってみました。

 

ゆるく右にカーブした先は崩落していました。50mくらいだったかな。

 

奥から入口方向を見ています。外の明かりがわずかに見えます。

 

向道照聴所にも崩落した地下壕跡がありましたし、戸田照聴所には地下壕の穴が2か所開いていました。

ここ深浦をはじめ、これら地下壕がどのように使われたのかはよく分かりません。防空壕?糧秣庫?はたまた、向道の立て看板に書いてあったように弾薬庫だったのか?

 

以上、これにて前編終了です。

 

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[参考資料]

「JACAR(アジア歴史資料センター)」

・呉海軍警備隊戦時日誌(Ref.C08030470300~C08030475700)

・徳山海軍警備隊戦時日誌(Ref.C08030476000~C08030476200)

・兵器目録(C08011396900)

「徳山要港防備図でたどる周南の戦争遺跡」(工藤洋三)

「国土地理院 空中写真閲覧サービス」