負けなさい | 満願寺窯 北川八郎

満願寺窯 北川八郎

九州、熊本は阿蘇山の麓、小国町、満願寺窯からお送りするブログです。
北川八郎の日々の想いや情報を発信してまいります。

<2003年月刊致知10月号より48回にわたり連載された「三農七陶」から抜粋します>



勝ち続けてはいけない。勝ちばかりを目指してはいけない・・・。

時には負けなさい・・・。


今年(2005年)の2月初旬 大寒の頃、九州・四国はすっぽり大雪の網をかぶせられてしまった。

3日も4日も雪が降り 宮崎や鹿児島まで雪が舞ったという。

私の住む阿蘇山の外輪の山々や畑や大地は 真っ白の雪に覆われた。

朝は寒く つららが斜めにぶら下がり、道も凍った。

しかし 朝の景色は 身震いしながらも 立ち尽くしてしまうほど美しい。

大きな山も小さな山も、大きな木も小さな木も、大きな枝も小さな枝も、枝先まで雪をまぶされ 風にふるえながら輝いている。


ほんとに朝の雪景色は心を静ませてくれる。

いつもの生活風景が雪によって一変し まったく別の顔を見せる時、人の心におきる変化も「さもありなん!」と許したくなる。

今もある 人に見せられない純な心も 濁りも すべて白く覆いかぶせられたら 一瞬にして違う世界に行けるかもしれない!朝の雪景色の世界のように!


その九州の雪景色の途中で 私は東京に飛び立った。

東京は西日本の寒気と違って バンバンの快晴、小春日和の世界だった。

毎朝 透んだ東の空から 朝焼けの中に太陽が昇って 西日本の冬景色が信じられなかった。


というのは この寒気団の訪問中に私は大事な命を二つ喪ってしまった。

一つは大切な友人(女性)。一つは私の長兄。

友人も 長兄も、その前日まで その夕刻まで元気で・・・まったく突然倒れ あっという間にこの世を去った。

友人は大分の田舎で女性ながら たくさんの人に慕われ 数百人の弔問者に見守られながらの式であった。

一方 長兄は親族だけに見送られた、ひっそりとした東京での式であった。


雪景色のように 日常が一変するほどの驚きだった。

私にとって二人の死はまだ遠く、元気な日常以外のイメージはまったく湧かないほどの健康体だったのだ。


長兄は終戦の頃が小学5年くらいで、あの混乱の昭和20年代が一番の多感な青春期であったため、進学もままならず 松本清張が描いた小倉市の米軍による占領の時代を 憧れと戸惑いと 貧苦の中で成長した。時代の波に揺られながらも 昭和後期の泰平と、平成の爛熟をまた 戸惑いつつ過ごした。


私も兄と同じ時代の波を受けながら、あの貧苦と劣等感と ジープを乗り回していたあの米兵への憧れを心にしみ込ませてきた昭和 平成を過ごした。

現代の物に溢れながらも 達成感のない 得体のしれない不安に生きる兄を先に見ながら歩んだ。

今はもう兄の そして友人の女性の悲しみも 喜びも 皆魂の海に流されてしまった。

思い浮かぶのは笑顔ばかり。

本当に・・・あの世に持っていけるものは 人に与えた喜びと悲しみだけ。

残された私たちは淋しがってはいいけれど 悲しんではいけない・・・と思いながらも 力が抜けてしまう。


・・・つづく



満願寺窯 北川八郎