<2003年月刊致知10月号より48回にわたり連載された「三農七陶」から抜粋します>
(前略)
最近訪れてきた若夫婦が私に問うた。
「天罰ってあるのですか?それは生きているうちか 死んだあとか どちらにあるのですか?」
天罰はあるだろうと ある国立大の教授が昔言っていたのを思い出す。
その先生は 政治家や独裁者や独善的な経営者を見ていると この世で「いい思い」をした分 死後、神から天罰が下されると考えなければ 私たち庶民はやるせないではないか。
だから私は 現世で悪い事をし いい思いをした人は当然死後に天罰が下り苦しむと考えると学生に答えていた。
私は「あるが・・・ない」ただ法則があるのみです、と答える。
快をむさぼり続けると すぐにその快は苦に変わる。
人を苦しめると 生きている間も 死んでからも また転生を経た次の人生でも、償いをさせられる。
ただ 投げたものが返ってくる という天の法則があるのみなのです。
人は人を傷つけ その場を言い逃れても、その傷みと苦悩の深さを学んでゆくように 天は仕組んでいます。
人を助け 赦す(ゆるす)と生きているうちにも人々から感謝され、才能の開花というチャンスを与えられ、生き生きと使命を果たせるように仕組まれています。
だから よく言われるように あきらめず善意と希望を持って今の仕事に努力する人に、天はチャンスという椅子を与えてくれる。
誠治かがよくやっている 秘密の談合や、誰にも知られずに吸った甘い汁も、天に自分というスパイを張り付けられていて そこから直通電話がつながっている。
どんなことも それが良きことでも悪しきことでも、すべて自分の心というスパイが天に報告している。
外から見て いい思いをしたように見えても、自分だけがいい思いをした人の顔はふくれ、利を守る為に顔は険しく、体と顔は必ずゆがみ ねじれていく。お酒を飲み過ぎた次の朝は 頭痛や体の不調に襲われるように・・・。
苦も快も喜びも悲しみも、自分のなした行為の重さと量に従って現れてくるだけなのです。
・・・つづく
(月刊致知2004年11月号)