食は神聖な行為 ② | 満願寺窯 北川八郎

満願寺窯 北川八郎

九州、熊本は阿蘇山の麓、小国町、満願寺窯からお送りするブログです。
北川八郎の日々の想いや情報を発信してまいります。

<2003年月刊致知10月号より48回にわたり連載された「三農七陶」から抜粋します>


前回つづき・・・



そう 食べる行為は、祈る行為と同じくらい神聖な行為なのです。どんなものを どんな味付けで どんな心で食べるかがとても大切なのです。毎日 毎日 ただ旨い物を求めて「食べる事は大好き」と言って ひたすらに口にいい物を 情報雑誌の紹介に染まって追いかけるのは食事ではないのです。


その上 周りの人たちに対して 怒りと苦情と文句を口にしながらの食事は、どうしても脂濃い 味の濃い食事になってしまうのです。怒りで胃も縮み 肝も腎も固くなっているし 悪感情が消化を妨げ 内臓を疲れさせてしまうのです。

悪感情のまま食事をするならば 顔はゆがんだままになり ごちそうの味もわからないまま食を終える事になるでしょう。


私は怒りや悪感情の中に自分がいる時 食べないことにしています。悪感情の中での食事は神聖な行為ではなくなるからです。


今 人類は歴史上始まって以来の豊かな 食糧事情の中にいます。テレビや雑誌によるグルメ礼賛のあおりの中で 食に祈り 腹八分におさえ その上、毎日質素な食事を摂ることは難しいかもしれませんね。それで私は自分への戒めとして 時々断食をしています。


しかし 大人たちのグルメ狂いによって 子供たちの食が乱れ アトピーも増え 肥満の子供たちを生み出していることは 食狂いの大人たちへの警告でありましょう。


この原稿を書いている時 ラジオの歌番組の中で 大阪の歌い手の方が「お金はいくらあっても 邪魔になりませんよ。皆さん!」と言っています。

それは私が若い頃 小金持ちの大人たちから何度も聞かされた言葉です。しかし 世界中のお金持ちたちを見てわかるように あり余るお金は 花に水をやり過ぎると、根腐れを起こすのと似て 人の心と魂を腐らせてしまいます。

お金が増えると 人は失う事を恐れ始めるのです。そして人は純粋性を失っていきます。


人生のあらゆる荷は・・・お金も罪も 少ない方がいいのです。

少し損をする人生を歩みたいと思っています。


(月刊致知2004年2月号)




満願寺窯 北川八郎