食は神聖な行為 | 満願寺窯 北川八郎

満願寺窯 北川八郎

九州、熊本は阿蘇山の麓、小国町、満願寺窯からお送りするブログです。
北川八郎の日々の想いや情報を発信してまいります。

<2003年月刊致知10月号より48回にわたり連載された「三農七陶」から抜粋します>


(前略)



「この秋は 雨か嵐か知らねども われは今ある田の草取るなり」という歌を教えてもらった。

何が起こるかわからない未来を あれこれ心配するよりも 今の現実をきちんとこなし 仕事をおろそかにせず、手を抜かずに生きて・・・あとは天にまかせよう。


青空に浮かぶ赤い豆柿を見ていると 少年の頃のある事件を思い出した。戦後 しばらくは柿の実も貴重なおやつだった。甘柿か渋柿の見分けもつかず かぶりついて便が出なくなったこともあった。やっとその見分けがつく年になった頃、小学4年か5年の同級生5人くらいで山を越え川に魚を釣りに行った。


みんな腕白だった。いつも洟(はな)をたらして 棒を振り回し走り散っていた。その日 西の空が紅く染まる頃 魚も釣れず 手づくりの竿を振り振り帰途についていた。誰も昼も食べてなく お腹が空いてたまらなかった。一人があぜ道の柿の木を見つけ登り始めると みんながワァワァと登りつめ 柿をむさぼり喰った。木の頂上で夕焼けを見ながら ジューシィな実をほおばった。うまかったなぁ。


私たちは あまった柿を体中に隠し、全員帽子の中まで柿を詰め込んで 暗くなった田の道を喜び走っていた時、頭に日本タオルのほおかぶりをしたオバさんが 大の字に腕を広げて立ち 私たちをさえぎったのだ。私たちは 隠しもっていた最後の 最後の一個まで、むしり取られ ゲンコツをくらわされた。


罪の意識と おやつを奪われた悲しさと、オバさんの罵倒に心が傷ついた。今 大人になって思っても 最後の一個くらいは与えてくれてもよかったのではないか。あの大人の無慈悲さに 私たちは皆、腹を立てていたのを想い出す。


都会を捨て 私たちの住む小国町に移り住み、農業を覚えながら生きている若い福田夫婦と語り合う機会があった。

「そんなに遠くない私の学生時代、感謝も何もなく 腹が空いたら食べていました。それは今思うと エサを食べているのと同じで、腹が膨らみ 少し舌に良ければよかったのです。でも今 自分で少し畑を耕し 野菜を育て 芋や豆を食べていると 食べるたびに生命を感じるのです。本当に 何か地球や大いなるものに感謝しながら食べています。とてもおいしいのです。毎日毎日の食事がシンプルですが とてもおいしいのです」


と真剣に いい顔で話す。

いい生き方をしている人たち。


・・・つづく



(月刊致知2004年2月号)



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