怒りを徳に変える | 満願寺窯 北川八郎

満願寺窯 北川八郎

九州、熊本は阿蘇山の麓、小国町、満願寺窯からお送りするブログです。
北川八郎の日々の想いや情報を発信してまいります。

<2003年月刊致知10月号より48回にわたり連載された「三農七陶」から抜粋します>


(前略)


エサをやって飼う動物たちと違って 田の米や 畑の作物はガマンというものがなく、太陽か水のどちらかが欠けると すぐにダウンする。植物たちは本当に天候異変に弱い。都市に住み 人間社会だけを見つめていると 経済ですべて片が付くと人々は錯覚してしまうようになるようだ。


都市では 自分たちの都合だけで生きていける。時には電話一本でどうにでもなるからだ。毎日あの賑わいの中に生きていると 突然どうしてもお米が手に入らなくなるなんて・・・考えもつかないのだろう。


おいしい食事も 快適な住居も水もコーヒーも 水道もガスも すべてお金で片が付くと思い込んでいる。私にとって その辺が不思議。今の供給は絶えることがないと思い込んでしまっている。田舎に住み 四季の変化の中に生活していると 毎日・毎朝 まず空を見上げる。毎日畑に行き、陶器を作り 自然の恵みの中にいると 自分(人間)の都合だけで生きてはいけないことを知らされる。この人生が与えられていることに感謝してしまう。


この時期 阿蘇の草原の波の上に上ると、ススキの穂の果てしなく揺れる景色にポツンと身を置くことができる。この千年間 変わらぬ景色の中に佇むと 古代から延々と続いた魂の果てに自分がいることに気づく。私が昔 この景色の中で長断食をした時、最初にもらった啓示は「怒りをなくせ」ということだった。


男性の場合 社会の上層にいくほど 怒りやすくなる人が多い。野心があって欲が強くなってくるほど 怒りは増してくる。私の友人に怒りのエネルギーこそ経営の力とする人がいた。毎朝・毎夕元気よく社員を叱り飛ばし、家族に怒り 取引先に怒りをぶつけ 恐がられていた。支配的・権力的思いを生きるエネルギーに変えていた。誰も止められなかった。そのうちに 欲は大欲に昇華せず わがままとなり 周りを苦しめていった。ところが その怒りの矢は自分に向い 怒るたびに心臓発作となり、心臓病と不安 恐怖におののくことになった。人に投げた怒りは必ず自分に還ってくる。それも その人の運や体力・地位を失った時に還ってくる。人に投げた心は 良きことも悪しきことも 二つの矢となって飛び 一つは人々に、一つは自分の心に積み重なってゆく。積み重なった矢は自分が衰えた時に還ってくる。


怒りと不安は 旨い食事ときらびやかな世界を欲しがる。怒りと不安の中にいる人が 野菜食や粗食を摂り続けているのに出会ったことはない。

不安と怒りとイライラを人生から追放することが 年を老(と)る者の務めなのだ。

専務になり社長になって まだ怒りの世界にいる人は恥ずかしい。地位と保身にしがみつくと 不安に脅かされる。


・・・つづく


(月刊致知2003年11月号より)




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