(前回 からの続きです。かなりスピリチュアル的な内容になってきましたが大丈夫ですか?
しかもだいぶ間が空いてしまいました。)
続きものなので、見逃した方はこちらをご覧下さいませ。
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「自分Bは魂の本質であり、自分Aを通して三次元を体験することが喜び。」
それは、それでいいんだが・・・
こんな疑問が浮かばないだろうか?
そもそも、なぜ自分AとかBとかに分かれているんだろうか?
では、自分Bについて見てみましょう。
自分Bは奥ゆかしい。
自ら自分の存在を隠しているかのよう。
もっと、ハッキリ存在をアピールしてくれれば、何も難しくないのに。
でも、それでは自分B(自分の本質・魂)は面白くないのだ。
いったん隠しておいて、体験しながら発見していくゲームを楽しみたいのだそうだ。
チャン☆チャン♪
そもそも自分Bは魂。
人生は学びの場、体験の場。
でも、この世界に降りてくる時には、魂の世界にいた時の記憶を
わざと忘れさせてきている。
ストーリーを知っていたら映画は面白くないのと同じように。
生まれる前に、あらかじめ設定した事は記憶の奥のほうに隠される。
だから、自分Bは決して答えを教えない。
先生が、生徒に考る時間を与えるように。
体験を通して学んでほしいと思っている。
それが、結果的に本人の智恵を豊かにすることになるのを知っているから。
でも、ヒントはいっぱいくれる。
だから、安心して人生を楽しもう♪
立派に「主役」を演じよう。
自分B(魂)の小さな声に耳を傾けながら、本来の私を思いっきり生きよう。
私たちはある意味、記憶喪失だけれども、
自分の本質は、全く消えてるわけではない。
実は、ところどころに出ているのである。
本人がそれに気付いていないだけ。
となると、自分Bとのコミュニケーションは生きる上での重要ポイント。
うっかり、うかうかしてると自分Bの存在はド無視状態ということもありえる。
つづく・・・