《PROJECT80》9
油絵から現在の「オブジェ」制作に移行するきっかけの第一番は「コラージュ(貼り絵)」だと思います。絵具を使用するより「色」も「質」も多様で、「紙」をはじめとして貼れるものならなんでも!です。やがて「襖」「障子」そして「屏風」など伝統文化としての「室礼(しつらい)」へと広がり、「茶室」「庭園」などに興味関心は広がり続けています。日本庭園との出会いは中学時代、★天王寺美術館横にある「慶沢園」だったと思います。
★543-0063大阪市天王寺区茶臼山町1天王寺公園内/06-7494-3583(慶沢園管理事務所)
https://www.keitakuen-garden.jp/
https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000645614.html
慶沢園は、1926年(大正15年)に、江戸時代から続く大阪の豪商住友家15代住友吉左衛門友純(号は春翠)から、本邸とともに大阪市へ寄贈されました。園内は、大きな池に中島が浮かび、その三方には築山が配されて、変化に富んだ地形を作り出しています。池の周りには園路や飛石、橋が巡らされ、茶室や四阿が点在しています。慶沢園と同じ時期に寄贈された住友家本邸の跡地には、現在★大阪市立美術館の本館が建っており、庭園の奥からはその美しい姿を一望することができます。自然と歴史が調和した、趣深い庭園です。
https://www.ogawajihei.jp/
作庭を手がけたのは、★「植治(うえじ)」の号で知られる七代目小川治兵衛です。植治は明治時代を代表する造園家で、平安神宮神苑、円山公園、山縣有朋の別邸である無鄰菴など、数々の名庭を生み出しました。植治は、伝統的な日本庭園の技法に加え、西洋の近代的な造園技術や様式を取り入れ、新たなスタイルを確立した人物としても知られています。慶沢園にも、植治の革新的な発想と卓越した技術が随所に息づいています。春翠が植治に作庭を依頼するようになったのは、平安神宮神苑の素晴らしさに深く感銘を受けたからだと言われています。植治は慶沢園の作庭に着手する前、春翠とともに金沢★兼六園を視察しています。また、岡山★後楽園や高松★栗林公園といった大名庭園を参考にして慶沢園が造られたと考えられています。植治は慶沢園の他にも、住友家の各別邸の造園を数多く手がけ、その卓越した技術と美意識で、近代の日本庭園に大きな足跡を残しました。
