2025浄厳院への道(12) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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近江八幡★高木家についての資料(文書)を発掘しましたので、掲載します(読みやすくするために拡大変形)。
★八幡堀界隈「瓦版」ほのぼの通信/2018 Vol.35
http://www.hachimanbori.com/kawaraban.html
(前略)光治、光喜、光吉、光連、光視、光幹、光規、光矩、光一、光義、光直、と約400年近く大工職を継承しました。その間、弘治2年(1556)に八幡神社本殿と下の八幡神社拝殿を造営し、天正6年(1578)には上の八幡神社(八幡山大平にあり)の拝殿を造り、同17年には一旦壊れたと思われる上の八幡神社を秀次によって再建しました。文禄2年(1593)には京極高次が八幡神社の本殿と神輿を修理させており、また、慶長6年(1601)8、9月には代官間宮彦次郎が拝殿、楼門を、翌年には神輿仮屋を修理しています。慶長17年(1612)には代官権太小三郎以下13ケ村の氏子、町民に寄進によって、高木兵衛が鐘及び鐘楼を建設しています。元和2年(1616)に日置清順が八幡神社の鳥居の材木を寄進した時には、氏子の奉加を以て、高木作右衛門がこれを作りました。その他顕著なものは元禄7年、京保9年及び同19年の西別院の建造改築、徳川期の★安土浄厳院の諸造作、大坂の東御堂の建立、元文2年(1737)の日野町信楽院本堂、宝暦2年(1752)の甲賀郡矢川神社、同5年神崎郡金堂の弘誓寺の建造、安永4年(1775)の伊勢湿一身田専修寺の建立等が主たるもので、明治時代にも多くの優れた建築を残しています。以下略