・・・館内には新宮晋さんの作品、そしてテーブルのある中庭には、二科会・木村敏さん(1904~1999)の彫刻「かたぐるま」がありました。
https://ameblo.jp/manabunc/entry-12229763440.html
《参考》「芸術家との交流」著:伊藤重義/美術出版デザインセンター(1989)敬愛する木村敏先生ご夫妻に。木村敏(彫刻家)と著者との交流によって生まれた、著者から木村先生へのお便りと木村敏作品の写真を盛り込んだ一冊。
・・・前回の訪問(2016)時には彫刻「かたぐるま」を実際に観ることなく、帰宅後に調べてわかったことでした。このような書籍として、作家と作品が記録に残ることは素晴らしい~あらためて作品を前にし感慨深い。
【木村敏】明治35年兵庫県朝来市生まれ、日大芸術科中退、小倉右一門下。二科会評議員。
・・・さらに、今回「芦屋中央公園」で偶然発見した「人びと」も、「芸術家との交流」の本の中で紹介されていました。
《NEWS》2022.2.28朝日新聞より
俳人の稲畑汀子さん死去 「ホトトギス」名誉主宰 朝日俳壇前選者
日本最大の俳句結社「ホトトギス」名誉主宰で日本伝統俳句協会名誉会長、朝日俳壇前選者の稲畑汀子(いなはた・ていこ、本名・稲畑=いなばた)さんが27日、心不全のため兵庫県芦屋市の自宅で死去した。91歳だった。通夜、葬儀は近親者で営む。喪主は長男で俳人の廣太郎(こうたろう)さん。1931年、横浜市に生まれた。祖父は俳人で俳句界の巨人と称される★高浜虚子。父も俳人の高浜年尾で、幼いころから俳句に親しんだ。79年、年尾の死去後に「ホトトギス」主宰を継承。87年に日本伝統俳句協会を設立。2000年、芦屋市に財団法人虚子記念文学館を開設し、理事長に就任した。13年に「ホトトギス」主宰を廣太郎さんに引き継ぎ、名誉主宰になった。1897(明治30)年創刊の月刊俳句誌「ホトトギス」は、昨年12月号で1500号に達した。82年9月から2022年1月まで、朝日俳壇選者を約40年にわたって務めた。虚子の伝統を尊んだ「有季定型」「花鳥諷詠(ふうえい)」「客観写生」を信念とした。句風は風雅で気品があり、代表句に「今日何も彼もなにもかも春らしく」「落椿とはとつぜんに華やげる」「初蝶(はつちょう)を追ふまなざしに加はりぬ」「空といふ自由鶴舞ひやまざるは」などがある。率直な人柄で新聞、雑誌、テレビに登場する機会が多かった。18年に亡くなった俳人金子兜太さんとの季語をめぐる真っ向からの討論が話題を呼んだ。毎週行われる朝日俳壇の選句のための上京を、コロナ禍で選句会が休止となる20年3月まで37年以上続けた。「善意を持っての選句」を旨とし、22年1月9日付の「第38回朝日俳壇賞」の選が最後の掲載となった。
《谷崎潤一郎記念館》
659-0052芦屋市伊勢町12-15/0797-23-5852
https://www.tanizakikan.com/index.html
昭和9年から約3年間芦屋に住み、名作『細雪』を書き上げた文豪谷崎潤一郎の業績をたたえ芦屋市が建設した和風鉄筋2階建・寄棟造・瓦葺の記念館1988年 に開館した。谷崎の好んだ数奇屋風の邸宅を模した記念館と庭園からなり、遺族から寄贈された谷崎愛用の机、硯、筆、美術品や、さまざまな資料を収蔵・展示している愛用した座机や硯箱などを配した四畳半の書斎も再現。約300平方メートルの日本庭園もある。
《芦屋市立美術博物館》
659-0052芦屋市伊勢町12番25号/0797-38-5432
1991年に芦屋市制施行50周年記念事業として開館いたしま
した。美術部門と歴史部門を併せた複合施設として、芦屋ゆかりの作家の作品を中心に内外の名品をご覧いただきます。また、芦屋の自然や歴史を実際に目で確かめ体験する学習の場として、皆様に親しまれる身近な文化施設となることをめざしています。園内には、★小出楢重のアトリエが復元され、愛用の画材や著作の原稿が展示されています。
【小出楢重】(1887~1931)
1887年★大阪市南区長堀橋筋一丁目(現在の中央区東心斎橋)に生まれる。小学校から中学時代にかけて渡辺祥益に日本画の手ほどきを受ける。1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科を受験したものの不合格、日本画科への編入を許されて入学する。下村観山の指導を受けるが、のち洋画に転向。1919年(大正8年)、二科展出品作の「Nの家族」で樗牛賞を受ける。翌年は《少女お梅の像》が二科賞を受賞。この頃より挿絵等の仕事を手がけ始め、ガラス絵の制作にも着手する。1921年から1922年に渡欧。1923年二科会員に推挙。フランスから帰国後の1924年には鍋井克之、国枝金三、黒田重太郎らと大阪信濃橋(現西区靱本町一丁目)の日清生命ビル内に「信濃橋洋画研究所」を設立し昭和前期の洋画界に新風を送り込み、若手の先駆者となった。大正15年(1926年)、現在の芦屋市川西町に転居。「芦屋の風景はニースの風景に似ている」と自らの随筆に書いています。アトリエを新築して、昭和6年(1931年)43歳で亡くなるまで、ここで多くの代表作を描きました。晩年に集中して描かれた裸婦像は、西洋絵画に見られる理想化された裸婦像とは一線を画した、日本人による日本独自の裸婦表現を確立したものとして高く評価される。芦屋市立美術博物館の庭に、小出楢重のアトリエが復元・保存されている(1929年築、1991年復元)。
《小説『蓼喰う虫』》著:谷崎潤一郎/挿絵:小出楢重
東京日日、大阪毎日新聞夕刊に1928・昭和3年12月4日から翌1929年6月19日(大阪毎日は18日)まで全83回(挿画83点)、随時連載された。最初の単行本は1929年11月改造社刊、これには挿画は1点も入っていない(装幀は楢重)。楢重没後の1936年6月の創元社刊行本に全83点が掲載されている。
●「小出楢重の素描・小出楢重と谷崎潤一郎」刊:芦屋市立美術博物館・芦屋市谷崎潤一郎記念館
谷崎潤一郎談「何べんも描いてるんです、同じ場面を。そのなかから、小出さんが自分で選んだのか新聞社で選んだのか知りませんけれども決めましてね。だから同じ図柄のものがあと何枚もあるんです。それをまた希望者があって分けたりして、屏風なんかにした人もあったようですね。それだから「蓼食う虫」の挿画入りの本(水谷註:既述、創元社刊行本)が出た時に、自分の持ってる絵と違ってるけれどもって、質問して来る人がありましたよ。でも、どっちも本物には違いないんです。」
●小出楢重随筆集「油絵新技法」1930アトリエ社より
浮世絵師の手になる挿絵に私は全く感心する。人物の姿態のうまさ、実感でない処の形の正確さ、そして殊に感服するのは手や足のうまさである。かなりの修業を積んでいると見えて、その形に無理がなく、そして最もむつかしい処の手足が最もうまく描きこなされている事である。挿絵のみならず、油絵や日本画の大作を拝見するとき、その手足を見ると、その画家の技量と修業の深浅を知ることが出来るとさえ私は思っている。