埋蔵文化財2 | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

《神戸市埋蔵文化財センター開館30年記念「福原京」の考古学》

2021年8月28日(土)~11月28日(日)

https://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/center/schedule/kikakuten.html

平安時代末期の治承4年(1180)、神戸にひらかれた「福原京(和田京)」ですが、半年で京都へと都が戻されたこともあり、地上にはその痕跡がほとんど残されていません。そのため、幻の都とも言われるほどに実態が不明で、『方丈記』や『平家物語』などからその姿を想像するしかありませんでした。この都の姿が考古学的にはじめて確認されたのが昭和57年(1982)の神戸大学医学部付属病院構内で行われた楠・荒田町遺跡第2次発掘調査でした。その後、昭和61年(1986)には雪御所遺跡、平成5年(1993)には祇園遺跡の発掘調査が始まります。現在までの発掘件数は、楠・荒田町遺跡が65次、雪御所遺跡が7次、祇園遺跡が22次を数え、「福原京」、そしてその前後の歴史が少しずつ明らかになってきています。平成3年(1991)にオープンした神戸市埋蔵文化財センターには、発掘調査で確認された「福原京」関連の考古資料・データが保管・蓄積され、当センターはその解明とともに歩んできたとも言えます。平清盛没後840年にあたる本年、「福原京」にかかわる調査成果について改めて紹介する企画展を当センター開館30年記念として開催いたします。

 

・・・偶然立ち寄ったセンターで、こんなにも丁寧な展示説明ガイドをしていただけるなんて、本当に最高でした。

【平清盛】(1118~1183)

伊勢平氏の棟梁/平忠盛の長男として生まれる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得、平治の乱で最終的な勝利者となり武士として初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。のち平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して娘徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族、寺社、武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、1183年熱病で没した(享年64)。

・・・企画展示に続いて、バックヤードも案内していただきました。

・・・熱のこもった説明に、参加者も思わず身を乗り出して聞き入りました。

 

《参考》「六波羅蜜寺」(真言宗智山派)075-561-6980

963年(応和3)、空也上人により開創。上人が悪疫退散の祈念をこめて作った十一面観音像を本尊として起こした寺で、西光寺と称した。のち地名の六原にちなんで六波羅蜜寺と改称した。高弟の中信(ちゅうしん)上人によりその規模増大し、天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭(たっちゅう)に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る★平家一門の邸館が栄えた。その数5200余りに及んだが、1183年(寿永2)平家没落の時、兵火を受け、諸堂は類焼した。その後、源頼朝、足利義詮(よしあきら)、さらに秀吉の補修を受け、多くの塔頭や子院を持っていたが、明治維新に際して寺領を没収された。しかし、藤原・鎌倉時代のすぐれた仏像、肖像彫刻が多数ある。西国第17番の札所。

◆平清盛坐像[重文] 平家物語に描かれている清盛の傲慢さは全くなく、仏者としての気品を覚える。一門の武運長久を祈願し、朱の中へ血を点じて写経した頃の太政大臣浄海入道清盛公の像。

《参考》平清盛はなぜ福原遷都にこだわったのか?/歴人マガジンより

https://rekijin.com/?p=20720

「鳴くよウグイス平安京」794年の平安京遷都から約400年、太政大臣へと昇り詰めた平清盛は、福原へと遷都を強行しました。しかしこれはたった半年で挫折してしまいます。ちょっと不可解にも思えるこの福原遷都。清盛はなぜ福原への遷都を決めたのでしょうか?

平安末期の治承4(1180)年6月、平清盛によって都が京都から福原(兵庫県神戸市中央区~兵庫区北部付近)に移されました。400年も続いた平安京からの遷都ということで、高倉上皇や同じ平家一門からも反対の声が挙がったのですが、それでも清盛は強行したのです。そして、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇が福原へ行幸するという形で遷都となりました。行宮という仮の御座所が造られ、福原を拠点としていた清盛ら平家一門の邸宅が提供されたのですが、とても慌ただしいものだったそうです。

福原には、平家の港である大輪田泊(現在の神戸港西部)がありました。ここは中国の宋との貿易も行われていた国際貿易港で、人工島の「経が島」まで造られていたのです。清盛は、仁安3(1168)年に出家してからは主に福原に居住していました。平家一門の別荘も多かったので、ここに都を置き、中国(宋)との貿易の陣頭指揮をとるつもりだったのでしょう。遷都の理由についてはいくつかの説があります。ひとつは、奈良・京都の寺社勢力の政治干渉を避けたいという思いがあったという説です。以仁王が平氏追討の令を各地に下した際、奈良の興福寺は以仁王に加担しました。他にも園城寺や延暦寺も反平氏の態度を鮮明にしており、この勢力を遠ざけたかったと清盛が考えたために遷都に及んだとも言われています。また、もうひとつは、福原遷都によって新たな朝廷の出発としたかったと考えていた説です。平安京に桓武天皇が遷都したときは、天武天皇系から天智天皇系へと系統が移行した節目でもありました。そして、平城京から平安京へと都が移され、新たな王朝としての出発を飾ったわけです。清盛もまた、自分の孫に当たる安徳天皇が即位したということで、平氏の影響が強い新たな朝廷のスタートを内外に知らしめたかったのではないでしょうか。多くの反対を押し切り清盛が強行した福原遷都ですが、たった半年で頓挫することとなります。高倉上皇はもともと遷都に反対だったため平安京を放棄せずにいましたし、急すぎる遷都によって都市整備も進んでいませんでした。それに加えて、以仁王の平氏追討令によって、全国各地で反平氏の反乱が起きていたのです。これを鎮圧する方が先決であり、清盛は苦渋の決断を下し、平安京へと再び都を戻したのでした。そして翌年の治承5(1181)年、病に倒れて亡くなってしまったのです。

寿永2(1183)年には、反平氏として勢いを増した源(木曽)義仲に平氏は敗れてしまい、西国へと落ち延びていきます。その途中で一門は福原に立ち寄り一晩を過ごしました。そして翌朝、街に火をかけて立ち去ったのです。彼らの行く先に待っていたのは壇ノ浦。元暦2(1185)年、西国へ落ち延びた平氏一門は、源氏勢力によって壇ノ浦に沈みました。福原遷都からわずか5年後のことだったのです。

 

・・・久々に、勉強になりました。ありがとうございました。