クジャク(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・若冲のクジャクもいいけれど、

 

《東寺塔頭「観智院」》

601-8473京都市南区八条大宮西入ル九条町403/075-691-1131

https://toji.or.jp/

東寺真言宗。東寺塔頭・別格本山。開基は杲宝僧正。1308年(延慶1)東寺に帰依した後宇多法皇が、西院に参籠中、二十一ヶ院の建立を予定されたうちの一つと伝える。代々学僧をもって住持とし、東寺の別当職を兼ねた。客殿は国宝、本堂には重要文化財の★五大虚空蔵五躯がある。

★五大虚空蔵

虚空蔵菩薩の功徳を五方に分けて菩薩としたもの、あるいは金剛界の五智如来の所変。五大金剛虚空蔵ともいう。日本では 9世紀頃から信仰されるようになった。方位によって中央の法界虚空蔵、東方の金剛虚空蔵、南方の宝光虚空蔵、西方の蓮華虚空蔵、北方の業用虚空蔵(ごうようこくうぞう)があり、それぞれ色や持物によって区別される。京都市の教王護国寺(東寺)観智院の木像は 9世紀中頃の作で唐からの請来像。ほかに神護寺多宝塔内の国宝の木造坐像 (836~845) が知られる。金剛虚空蔵(獅子)宝光虚空蔵(象)法界虚空蔵(馬)業用虚空蔵(★孔雀)蓮華虚空蔵(迦楼羅(かるら)、「孔雀」は尾を広げているのに対して「迦楼羅」は尾を下げていて金翅鳥であることを表している。

《参考》ラージフォーマットデジタルカメラGFXで迫る★立体曼荼羅の宇宙

フジフイルムスクエア企画写真展/立木義浩写真展「遍照(へんじょう)」~世界遺産「東寺」~

https://www.fujifilm.com/jp/ja/consumer/events/6335

2021年6月11日(金)~30日(水)フジフイルムスクエア「富士フイルムフォトサロン」東京

長きにわたり日本の写真界の第一線で活躍し、今なお果敢に新たな表現に挑みつづける写真家立木義浩が、世界遺産である真言宗総本山 東寺〔教王護国寺〕の仏像群を、富士フイルムのラージフォーマットデジタルカメラ“FUJIFILM GFX100、GFX100S”で撮影した、モノクロ作品展を開催します。真言密教の教主である大日如来の別名にして、空海の灌頂(かんじょう)名でもある「遍照金剛(へんじょうこんごう)」。その意味は「この世の一切を遍(あまね)く照らす不滅なもの」です。真理は目に見えなくてはならないとする密教の精神を顕す「両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず)」を立体で表現した仏像群を見渡し、立木の琴線に触れた瞬間を集めた本展が、いにしえから光溢れる世界を願ってきた人々の心に出合う機会となれば幸いです。1998年、立木義浩は東寺を撮影。東寺を訪れるなりこの寡黙にして雄弁な被写体に魅せられて撮影にのめり込み、これを写真集『東寺―生命の宇宙』(集英社)にまとめました。それから20年余りが経ち、再び東寺を訪れたその手には、ラージフォーマットデジタルカメラGFXシリーズがありました。フィルムカメラとデジタルカメラの大きな違いの一つは、高感度性能。デジタルカメラの特性を存分にふまえ、光の少ない闇の中でも時には手持ちで軽やかに、時には三脚を立ててじっくりと、融通無碍(ゆうずうむげ)に、心と体の赴くままに、広大な立体曼荼羅の中を縫うように歩き回り、独自のライティングとアングルにより、誰も見たことのない仏像の姿を明らかにしました。さらに、GFX100に新たに搭載された“ピクセルシフトマルチショット”機能による「4億画素」での撮影にも挑み、世界最高レベルの画質で立体曼荼羅を再現します。確かな身体感覚がとらえる一瞬の閃きでシャッターが押されるとき、立木にしか見つけられない世界が現れるのです。その一枚一枚は、かつての作品とはまた異なる趣で、より精彩に仏像と空間に宿る生命感を伝えてくれます。

東寺は平安遷都から2年後の796年に建立されました。その10年後、空海は密教という新しい仏教を唐から持ち帰り、823年に嵯峨天皇より託された東寺を真言密教の根本道場とします。日本で初めての密教寺院が誕生したのです。密教における唯一最高の仏、大日如来を中心に諸尊が整然と並ぶ「両界曼荼羅図」は、悟りの境地である宇宙の真理、理想の世界をわかりやすく描いたものです。これを立体的に表したものが東寺の講堂に安置された仏像群。その一部を成す「五大明王」や「五大菩薩」など、東寺には国宝や重要文化財が多く残り、1994年には世界文化遺産に登録されました。

《大乗寺(応挙寺)》

669-6545兵庫県美方郡香美町香住区森 860/0796-36-0602

http://www.daijyoji.or.jp/

兵庫県美方郡香美町、国立公園山陰海岸に位置する大乗寺は、天平17年(745年)に行基菩薩によって開かれた高野山真言宗のお寺です。江戸中期の画家★円山応挙やその一門の画家たちの襖絵などがたくさんあるので「応挙寺」の名で親しまれております。近年応挙の研究が進むとともに、大乗寺では障壁画で囲まれる各部屋の空間が★立体曼荼羅を構成しており、宗教的空間の具現化を意図したものではないかといわれています。応挙は絵画の美術的評価に加えて空間プロデューサーとしての側面が再評価されています。

★「孔雀の間」

http://museum.daijyoji.or.jp/02kyaku/02_01/02_01_01a.html

https://okyokindai2019.exhibit.jp/special/

今から250年ほど前。江戸時代後期に京都で活躍した、一人の天才絵師がいました。その名は円山応挙(1733-95)。京の都の『平安人物志』の「画家の部」には、かの★伊藤若冲(1716-1800)よりも先に名前が挙げられています。金毘羅宮(香川県)の襖絵の水飲みの虎図、足のない幽霊の先駆けとも言われる谷中全生庵(東京都)の幽霊図、そして三井記念美術館が所蔵する国宝「雪松図屏風」など応挙が遺した名品を挙げればきりがありません。何を描いても器用にこなした、オールマイティな天才、円山応挙。大乗寺(応挙寺)の襖絵の中で、最後に完成したのが、客殿で一番大きな部屋であり、十一面観音像を正面に拝する★「孔雀の間」です。大乗寺の障壁画の制作依頼を受けた応挙は、弟子たちと順次作品を制作し8年間をかけて、165面の襖絵を描いた。しかし天明の大火(1788)により、一番大きな部屋の襖絵を、完成間近にして工房ごと失ってしまいます。応挙の失意は、いかばかりであったことでしょう。そして応挙が大乗寺の襖絵の制作に再びのぞんだのは、亡くなる年(1795年)の春。描いたのは、金箔地の空間に枝を広げる松の巨木と、そこに遊ぶ墨の孔雀でした。特に「孔雀の間」の松と孔雀は、あえて色彩を用いずに墨だけで描かれた、いわばモノクロームの絵だが、「墨一色」と言ってしまうのは正確ではない。応挙はこの絵で様々な種類の墨を、それも随所で濃さに変えて擦って使い分け、時には塗り重ね、そうする中で墨の下の金の反射率も計算していた。西側一面が庭に開けた大乗寺の「孔雀の間」には、やわらかな外光が射し込んできます。

自然や花鳥、動物を生き生きと写し取った斬新な応挙の画風は、たちまち京都で評判となった。63歳の生涯を閉じたときには、息子の応瑞をはじめとして源琦、山口素絢、渡辺南岳ら多くの門弟たちが育っていた。奇想の画家と称せられる★長沢芦雪もそのひとりである。また、与謝蕪村の高弟だった★呉春も晩年の応挙に弟子入りを乞うが、応挙は親友として迎え入れたと伝えられる。呉春は南画と写生画とを融合した画風で四条派と呼ばれるようになり、円山派と四条派はその後の京都画壇の中心を成していった。そして派生的に生まれた原派、岸派、森派、鈴木派など多くの画系が複雑に絡みながら近代の京都画壇へと引き継がれていった。

★応門十哲

駒井源琦、長沢蘆雪、山跡鶴嶺、森徹山、吉村孝敬、山口素絢、奥文鳴、月僊、西村楠亭、渡辺南岳

【長沢芦雪】(1754~1799)

江戸時代の絵師。円山応挙の高弟。長沢蘆雪、長澤蘆雪とも表記される。名は、政勝、魚。字は氷計、引裾。通称、主計。芦雪の他、別号に千洲漁者、千緝なども用いた。円山応挙の弟子で、師とは対照的に、大胆な構図、斬新なクローズアップを用い、奇抜で機知に富んだ画風を展開した「奇想の絵師」の一人。

★「串本応挙芦雪館」

649-3503和歌山県東牟婁郡串本町串本833/0735-62-6670

http://muryoji.jp/index.html

当館は本土最南端の地、串本無量寺の境内に在ります。「寺に伝わる宝物を大切にする」という単純素朴な発想から、地域の人々の全面的協力により日本で一番小さい美術館として誕生しました。 昭和36年11月の開館であります。現代では珍しい精神共同体的所産であり美術館建設のケースとしては異例に属します。設計に当っては特に既存の寺院建築との融和に苦心がありました。鉄筋コンクリート造平家建高床式2棟(建築面積363平方メートル)で展示室は5室にわかれ、応挙・芦雪を主とする近世絵画を展示していますが、 最近若い人たちの来館が目立って多くなり、水墨画と現代の若者たちがどうつながっているのか興味あるところです。一つの冒険ではありましたが現代彫刻の収集をはかり、墨画と対比する新しい展示空間を設定し好評を呼んでいます。この小美術館は伝統的文化にかかわるだけでなく、あたらしい現代の文化的状況にも深くかかわって存在すべきであると希っています。

・・・「無量寺」少し遠いけれど、行ってみたいなあ。