ウトロ平和祈念館 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《ウトロ平和祈念館》

https://www.utoro.jp/

★ウトロ民間基金財団

振替口座: 00900-8-271813/ゆうちょ銀行:〇九九店 271813

ここには在日コリアンの悲しい歴史と それを乗り越えた「小さな統一」の力があります。ウトロ地区を通じて 人権と平和という普遍的価値から 歴史と現在、未来を考える。皆様と共に「ウトロで終わらない、ウトロの話」を 創っていきます。

京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地。この地区は1940年から日本政府が推進した「京都飛行場建設」に動員された在日朝鮮人労働者たちの飯場跡に形成された集落です。

当時在日朝鮮人たちは徴用や貧困から逃れるために飛行場建設の過酷な労働に従事し、やがて日本の敗戦により工事が中断されると、その場に使い捨てのように放置されました。 

終戦後、多くの労働者は帰国を希望しましたが、日本の植民地支配により故郷での生活基盤が破壊され、朝鮮半島が社会的にも政治的にも混乱していることや日本政府による財産の持ち出し制限、その他生計の問題などで日本にとどまる人々もいました。

朝鮮人労働者たちとその家族は行くあてもないまま自らの手で不毛の地を開拓し、ウトロを第二の故郷として互いに助け合いながら根を下ろして生きてきました。

《NEWS》京都ウトロ・火災で焼け残った「平和祈念館」展示予定品の一部発見/毎日新聞2021.9.16

在日コリアンの集住地域・京都府宇治市伊勢田町ウトロで8月に発生した火災で、現場に保管されていた「ウトロ平和祈念館」の展示予定品の一部が焼け残って見つかった。2014年に韓国で起きた★旅客船セウォル号沈没事故で生き残った、当時の高校生らが寄せたメッセージの立て看板も、文字の一部が判別できる形で回収された。祈念館の建設・運営にあたる「ウトロ民間基金財団」は別の場所に改めて保管し、活用方法を検討する。火災は8月30日夕に発生し、空き家5棟が全焼、住宅2棟が半焼した。現場は太平洋戦争当時に飛行場建設に関わった、朝鮮人労働者らの宿舎として建てられ、戦後も在日コリアン住民が住んでいた建物の隣。ウトロ民間基金財団は、祈念館の敷地内に移築するために建物を解体し、中にあった生活用品などを全焼した空き家の1棟に保管していた。

 

《参考》「セウォル号沈没事故」Wikiより

2014年4月16日に大韓民国の大型旅客船「セウォル(世越)」が全羅南道珍島郡の観梅島沖海上で転覆・沈没した事故である。セウォルには修学旅行中の京畿道安山市の檀園高等学校2年生生徒325人と引率の教員14人のほか、一般客108人、乗務員29人の計476人が乗船しており、車両150台あまりが積載されていた。大韓民国国立海洋調査院(朝鮮語版)によると現場周辺は水深27メートルから50メートルで目立った暗礁はなく、16日午前の時点で視界は良好、波高約1メートルと航行の安全に影響するような自然条件はなかった。この事故は乗員・乗客の死者299人、行方不明者5人、捜索作業員の死者8人を出し、韓国で発生した海難事故としては1993年10月に全羅北道扶安郡蝟島と辺山面格浦里の間の沖合いで292人の死者を出した『西海フェリー沈没事故』を上回る大惨事となった。前の運航会社が同じマルエーフェリーであること、建造した日本の造船所が同じであること、事故形態が似ていることから、2009年11月に日本の三重県で発生した「ありあけ」座礁横転事故と比較された。韓国では2013年まで10代の死因第1位は自殺だったが、この事故により多数の高校生が死亡したため2014年の10代の死因第1位は運輸事故となった。

★事故当時、イ船長(男性69歳)は操舵室を留守にしていたこと、乗客の避難誘導をしなかったこと、真っ先に脱出をはかり、9時35分頃に到着した海洋警察の船で、最初に保護されていることなどが伝えられた。朝鮮日報によれば、乗組員による避難誘導が全く行われなかったと、救助された乗客が証言している。

《映画》セウォル号沈没事故の遺族の再生を描いた映画『君の誕生日』より愛にあふれ涙を誘う特別映像&場面写真が解禁!

https://cinefil.tokyo/_ct/17357262

2000年の『ペパーミント・キャンディー』で新人俳優賞を総なめにし、2002年の『オアシス』、そして2003年の『公共の敵』でも数多くの主演男優賞を受賞、近年もアルツハイマーの連続殺人鬼を演じた『殺人者の記憶法』や、『1987、ある闘いの真実』での民主運動家役が記憶に新しいソル・ギョング。そして、2007年の『シークレット・サンシャイン』でカンヌ国際映画祭の主演女優賞を獲得し、2010年の『ハウスメイド』がカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に選出され、“カンヌの女王”と称されるチョン・ドヨン。韓国映画界を代表するトップ俳優二人が2001年の『私にも妻がいたらいいのに』以来、18年ぶりの共演を果たしたことで大きな話題を呼んだ本作。大事な子供を亡くした喪失感と、切ない愛を抱きながら生きる遺族の姿を名優にふさわしい渾身の演技と真心で熱演しております。更には『シークレット・サンシャイン』『オアシス』『バーニング 劇場版』などで世界の映画界を魅了する巨匠イ・チャンドン監督のもとで経験を積んだ新鋭イ・ジョンオン監督が本作で長編デビューを飾ります。監督自身がボランティア活動を通じ、長い期間遺族と接する中で生まれた本作は、韓国全土が悲しみに包まれた2014年4月16日、修学旅行中の高校生ら300人以上が犠牲となったセウォル号沈没事故を初めて正面から取り上げた作品となります。亡くなった息子の、近づいてくる誕生日を軸に、共に記憶し、悲しみを分かち合うことがどれだけ生きていく上での励みになるか、忘れられない傷を持つすべての人々に寄り添う、温かな感動作として仕上がりました。

http://klockworx-asia.com/birthday/

 

《NEWS》「痛ましい歴史」ウトロで平和祈念館起工、国境越え交流の場に/京都新聞2021.9.16

太平洋戦争中に計画された京都飛行場建設に携わった朝鮮人労働者の子孫らが暮らす京都府宇治市伊勢田町のウトロ地区で、来年4月末に開館予定の「ウトロ平和祈念館」の起工式が16日、建設予定地で開かれた。8月末に展示予定品の一部が焼ける火災があっただけに、出席した住民や支援者ら約30人は安全な工事を祈るとともに、国境を越えた交流の場になるよう願った。同地区は、終戦に伴い多くの朝鮮人が定住したが、貧困と差別が長年続き、2000年には司法の場で、住民たちが土地の所有企業から明け渡しを求められて★敗訴が確定した。しかし、支援者や韓国政府出資の2財団が地区東側の土地を購入し、市営住宅の建設が進んだ。18年には1期棟に40世帯が入居し、2期棟も22年度に完成する予定だ。祈念館はこうした歴史を次代に継承する施設で、住民や支援者らでつくるウトロ民間基金財団が2期棟東隣に建設する。起工式では、地鎮の儀式の後、同財団の郭辰雄(カクチヌン)代表理事(55)が「住環境が改善された今、歴史を伝えるとともに、地域コミュニティーの中心として、人々が国境を越えて集える夢のある施設にしたい」とあいさつした。趙成烈(チョウソンリョル)・駐大阪韓国総領事も「痛ましい歴史を持つウトロ地区は、韓日の過去と現在を共有し、新しい未来を築くシンボルとなる場所だ」と起工を祝い、住民を長年支援してきた★仲尾宏・京都芸術大客員教授も「展示する資料は世界の市民の財産」と語った。祈念館は鉄骨3階建て(延べ床面積約460平方メートル)で、地区の歩みを振り返る写真や、住民が戦後に使った生活道具を展示。地区で唯一残る戦時中の労働者宿舎「飯場(はんば)」も祈念館前の敷地に移設・復元する。節目となる起工式を終え、ウトロ町内会の田中秀夫会長(73)=韓国名・徐光洙(ソガンス)さん=は「住民にとって念願の施設。先代らが仕事もない中で住み着いて以来の歴史を学んでもらえれば」と話した。

《参考》「ウトロ地区」Wikiより

在日韓国・朝鮮人の集住地域のひとつで、陸上自衛隊大久保駐屯地の北隣に展開している。戦時中に計画された飛行場の募集に参加した日朝建設労働者とその家族の使っていた飯場を源流とする。韓国人の多い地域としては徴用以前から日本に居住していた朝鮮人をベースに、ここに1930年代末には既に日本に渡ってきてた朝鮮人、更に戦後も帰国せず日本に住むことを選んだ一部の被徴用者たちが合流して形成された。韓国国内は知られていないが2006年末の韓国政府の報告書にはウトロの住民は「徴用者ではなく、元から日本に居住していた朝鮮人がほとんど」と明示されていた。2016年には家屋の解体が始まり不法占拠状態が解消、再開発が始まった。「ウトロ地区」とはあくまで通称であり、正式な地名(町丁)ではない。本来の正しい地名は宇土口(うとぐち)であるが、誤記や誤読によって「ウトロ」へと変化したと考えられている。

1945年7月、飛行場が米軍に爆撃されたことを受けて航空機工場は生産活動を停止し、従事者の全てが失職した。終戦と同時に飛行場の建設が中止されると彼らが居座る理由も法的な根拠も無くなり、更に同基地と付帯設備はGHQが接収することとなった。朝鮮人労働者の大半は帰国したが、GHQからの退去勧告および朝鮮への帰国要求を拒否した朝鮮人労働者は不法に残留し続け、GHQが接収できなかった元・飯場が朝鮮人集落の原型となった。これは朝鮮までの船賃が労働賃金の数ヶ月分にも相当するほど高額で工面できなかったり、GHQによる無償の送還事業から漏れる等して帰国できなかったためである。朝鮮人の集落は日本各地に存在するが、私有地の不法占拠という点でウトロ地区は他の地域と事情を異にする。日本国際航空工業の合併等により1962年の7月に、ウトロ地区の土地所有権は日産車体工機(現・日産車体)へと移る。1980年代、不法占拠であることを理由として水道管の敷設を認めない日産車体側と、人権問題であるとして水道管の敷設を認めるよう要求するウトロ地区住民側が対立。1987年3月、日産車体が水道管の敷設を認める結果となった。

 

・・・以降、様々な金銭的かつ政治的問題もからみ複雑化し、現在「ウトロ平和祈念館」建設にまでこぎつけました。

 

★ウトロ平和祈念館建設へのご支援のお願い

https://www.utoro.jp/about

京都府宇治市ウトロ。ここに日本と朝鮮半島の歴史、日本で生きてきた在日コリアンの歴史、そしてさまざまな困難を乗り越え、ともに歩んできた日韓市民、それらの記憶と思いを伝えて未来へとつないでいくために「ウトロ平和祈念館」が建設されます。朝鮮半島が日本の植民地となっていた時代、ウトロには飛行場建設が計画され、多くの朝鮮人が建設労働者として集められました。戦争が終わり使い捨てのように放置され、行き場のなかった朝鮮人たちは飛行場建設計画が中断したのちも厳しい貧困と差別のなかで、ウトロで暮らし続けてきました。しかしウトロの土地が民間企業に転売されたことにより、一方的に立ち退きを迫られ生活の拠点が奪われかねない事態に陥りました。ウトロの人々は生活と権利を守るために自ら立ち上がり声をあげました。その声は、日本による加害の歴史と戦後も続く在日コリアンへの差別に心痛める多くの日本市民に支えられてきました。またその取り組みは国連からも住民たちへの差別を是正するよう勧告が出るなど、国際社会からも注目されました。そして韓国からもウトロに生きる同胞たちの生活とその歴史を守ろうという声が大きなうねりとなり、韓国政府も支援に乗り出しました。こうした声が大きな力となって多くの支援が寄せられた結果、ウトロの土地問題が解決し、住民たちが安心して暮らせる場ができました。そして日本政府・京都府・宇治市によるウトロの人々のための住環境整備事業が実施され、集合住宅をはじめ道路や上下水道などの工事が進み、劣悪な環境にあったまちの姿も見違えるほど大きく変わりつつあります。ウトロは戦争の時代に形づくられた、★日本社会から「置き去りにされた」朝鮮人のまちでした。しかし困難に直面しながら声を上げた人々と、ウトロに寄り添ってきた日本市民、在日コリアン、そして韓国市民が協力してウトロの歴史と居住権を守ったところです。この歴史は日本と朝鮮半島が互いに理解を深めあい、力を合わせ、★地域社会で「小さな統一」をつくることによって新しい社会と未来を築いていけることを示してくれています。このことが「ウトロ平和祈念館」を建設する大きな意義です。またウトロ平和祈念館は★歴史を継承するだけではなく、ウトロ住民をはじめ地域の人々に開かれた★コミュニティの拠点として、また地域を超えて日本と朝鮮半島の未来を担う人たちの出会いと交流が深まる場としても役割をになっていきたいと考えています。そして戦争から生まれたウトロという地域を守り抜いた人々の姿を通じて、人権と平和の大切さ、共に生きることの意味を伝えていける場所になることを切に願っております。こうしたウトロ平和祈念館の趣旨と理念に共感いただき、多くのみなさま方が建設事業に関心をお寄せくださるとともに、是非ともご支援いただけますようお願いする次第です。完成予定★2022年4月

 

・・・課題はたぶん山積しているだろうと察せられますが、ともあれ「置き去りにされた」という事実に対してまずは「知る」ことから努めたいと思います。ただ様々な立場や利害があって、なかなか共通理解・認識が深まらないのも現実です。だからこそ、地域社会での「小さな統一」を支援していくことが大切だと考えます。この「祈念館」が、「知る」「考える」そして「希望」の場となることを願います。

【仲尾宏】(京都造形芸術大学客員教授)

http://www.kmjweb.com/about/organization.html

10年ひとむかし、という言葉が日本にはあります。戦後の10年ごとに日本と朝鮮半島、そして在日コリアンにとって何があったのかをふりかえってみたいと思います。というのは今から60年以上もまえ、1952年にはサンフランシスコ対日講和条約が発効、第一次日米安保条約が始動し、日本が独立を回復した年ですが、同時に在日は日本国籍を喪失したものとみなされ、以後、年金・健保・児童手当三法をはじめ、市民生活上の権利の殆どから排除されました。地方参政権もまた然りです。外登法も施行され、指紋押捺制度も法制化されました。戦後日本社会における在日をはじめとする外国人に対する差別が法的にも、社会的にも体制化された年でした。時はまだ朝鮮(韓国)戦争のさなかでした。1962年、韓国では朴正熙政権のもとで第一次五カ年計画が着手されました。在日の間では「協定永住」とそうでない人びととの分断状況が深まり、指紋押捺拒否闘争が火を吹きはじめていました。1972年、沖縄返還と日中共同声明による日中国交回復があり、日韓関係でいえば、金大中拉致事件の前年、つまり韓国の軍事政権の支配が圧倒的であった頃です。また日本では李恢成が芥川賞を受賞し、暗い思いの日々を過ごしていた在日コリアン一筋の希望が見いだされた年でもありました。それ以降、芥川賞、直木賞をはじめ、在日コリアンの人びとが文化面の活動によりナショナルレベルの表彰を受けることが相次ぎます。またスポーツ界で活躍する人も戦後の第二世代、第三世代の間で続出する状況がそれ以後も続いています。1982年、ベトナム戦争の傷痕として発生した大量の難民の受け入れをめぐって、日本政府が重い腰をあげて難民条約を批准し、それが発効しました。1979年に批准された国際人権条約とともに、在日の人権問題が検証される場が「国際人権」を基準としてやっとできました。しかし個別の人権問題は障害者・高齢者の無年金状態ひとつとってみても依然として改善されず、裁判闘争に訴えても日本の司法当局は「立法府の問題」として耳をかさず、未だに店晒しのままです。他方、この年、日本の歴史教科書問題が東アジアの人びとの指弾をあびました。「侵略」を「進攻」といいかえたことをはじめ、過去の戦争責任、侵略責任を覆い隠し、歴史の真実から学ぼうとしない、日本の文教当局者と一部の学者たちの姑息な態度が韓国・朝鮮、中国、台湾の人びとの心、そして在日コリアンの心をどれほど傷つけたことでしょうか。この問題は、文部省(現、文部省)などの妥協により、一旦は修正解決をみましたが、近年の「自由主義史観」の持ち主たちによって、またもや反動的な教科書が発行され、一部の教育委員会で採択されはじめています。1992年、韓国でははじめての民主的な大統領選挙によって金泳三氏が大統領に当選し、翌年就任しました。日本では前年に「入管特例法」によって在日コリアンの「特別永住資格」が実現し、やっと子々孫々にわたって日本で暮らす法的地位が安定し、1952年から40年間の理不尽な扱いに終止符がうたれました。しかし近年の排外主義者たちのように、この資格そのものを否定する動きもまた出始めています。90年代には過去の植民地支配をめぐって93年の細川首相の記者会見を皮切りに、95年の村山首相の「談話」、また河野官房長官の「慰安婦」問題の責任を認めた発言など、日本政府の最高レベルでの過去の責任の自覚の発言が相次ぎました。戦後40年以上たったとはいえ、やっと日本政府と日本人が過去に目を向けはじめた、というべきでしょう。そして2002年、サッカーワールドカップの日韓共催が実現し、日本と韓国・朝鮮の間の新しい時代の到来をつげるような雰囲気が形成されはじめた。また小泉首相の第一回訪朝により、拉致問題の着手と同時に日朝国交回復問題を日程にのぼせよう、とする試みがはじまりました。この二つの問題は未だに進展をみせていませんが、日韓関係の更なる改善とともに日朝関係の正常化が諸問題の解決に繋がることを確認した点に意義があります。このように60余年の歴史を背負いながら、新しい刻を刻んでゆく過程で日本人と在日がどう結びあえるか、を考えつつ、当センターは前進して参りたいと思います。今後ともご支援・ご指導をよろしくお願いします。(在日コリアン・マイノリティー人権研究センター理事長)

●「在日コリアン・マイノリティー人権研究センター」

544-0032大阪市生野区中川西3-10-18/06-6717-2701

 

《NEWS》世界記憶遺産に「朝鮮通信使」「上野三碑」/2017.10.31日本経済新聞より

国連教育科学文化機関(ユネスコ)は31日、歴史的価値の高い文書などを対象にした「世界の記憶」(世界記憶遺産)に、江戸時代の朝鮮王朝が派遣した外交使節「朝鮮通信使」に関する資料の登録を認めた。日本から申請した群馬県高崎市の古代石碑群「上野三碑(こうずけさんぴ)」なども登録を認めた。パリで開かれた国際諮問委員会(IAC)で登録を審査し、事務局長が最終決定した。旧日本軍の従軍慰安婦関連資料については中国、韓国や国内の民間団体が共同で登録を申請していた。だが国際諮問委員会は従軍慰安婦関連資料について世界記憶遺産への新規登録の是非の判断を延期するよう事務局長に勧告したと明らかにした。従軍慰安婦問題は日韓の外交問題になっており、日本政府は「記憶遺産事業の政治利用につながる」として登録に反発していた。

日本から申請していたのは上野三碑のほか、第2次世界大戦中にユダヤ人を救った岐阜県出身の外交官、杉原千畝の資料「杉原リスト」。杉原リストは今回の登録に含まれていないとみられる。登録が認められた朝鮮通信使は朝鮮国王が徳川将軍家に派遣した使節団。対馬(長崎県)や江戸を経て、徳川家康が祭られる日光東照宮(栃木県)まで、一行が通った地域に外交文書や行列の様子を記した絵などが残っており、日韓の関係自治体や民間団体が共同で計333点の登録を申請していた。また上野三碑は飛鳥、奈良時代(7、8世紀)に現在の群馬県高崎市に建てられ、国の特別史跡に指定されている山上碑、多胡碑、金井沢碑の総称。681年建立の山上碑は完全な形で残る石碑としては国内最古とされる。いずれも漢字で刻まれ、東アジアの文化交流を示す遺産として同市などが申請した。記憶遺産を巡っては前回の2015年、中国の「南京大虐殺」関連資料が登録されたことに日本政府が反発。制度の改善を求めてユネスコ分担金の支出を一時凍結した。ユネスコは次の19年の審査から、事実関係や歴史認識で見解の相違がある案件については、関係国からの意見聴取の手続きを導入するなど、審査の見直しを決めている。

▼世界の記憶(世界記憶遺産) 世界各地の貴重な古文書や絵画を保護する目的でユネスコが1992年に創設した。世界で約350点が登録されており、日本からは平安時代の「御堂関白記」、シベリア抑留の資料「舞鶴への生還」など5件が登録されている。審査は2年に1度。申請は1カ国2件までの制限があるが、複数国の共同申請の場合は除く。加盟国の委員でつくる国際諮問委員会が非公開の場で審査し、ユネスコ事務局長が最終決定する。

 

・・・解決していない、できない?問題が多くある。せめて「知る努力と権利」について怠らないで行使していきたいものです。