・・・「不変」とは真逆にあたる「変身」について、
《変身》(Die Verwandlung)/著:フランツ・カフカ/Wikiより
カフカの代表作であり実存主義文学の一つとして知られ、また、アルベール・カミュの「ペスト」とともに代表的な★不条理文学の一つとしても知られる。カミュの「ペスト」は不条理が集団を襲ったことを描いたが、カフカの「変身」は不条理が個人を襲ったことを描いた。この「変身」における不条理は、主人公の男が、ある朝目覚めると巨大な虫になっていたことであり、男とその家族の顛末が描かれる。1912年11月に執筆され、1915年の月刊誌『ディ・ヴァイセン・ブレッター』10月号に掲載、同年12月にクルト・ヴォルフ社(英語版)(ライプツィヒ)より「最後の審判叢書」の一冊として刊行された。カフカはこれ以前に執筆していた「判決」「火夫」とこの作品を合わせて『息子たち』のタイトルで出版することを考えていたが、採算が合わないという出版社の判断で実現しなかった。「人間が虫に変身する」というモチーフはカフカの作品のなかで前例があり、1907年ごろに執筆された未完の作品「田舎の婚礼準備」には、主人公ラバンが通りを歩きながら、ベッドの中で甲虫になっている自分を夢想するシーンがある。『変身』のザムザ (Samsa)、「田舎の婚礼準備」の主人公ラバン (Raban) の名はいずれも同じ母音2つと子音3つの組み合わせからなり、作者自身の名カフカ (Kafka) を想起させる。しばしば暗い内容の作品と見なされるが、カフカはこの作品の原稿をマックス・ブロートらの前で朗読する際、絶えず笑いを漏らし、時には吹き出しながら読んでいたという。『変身』の本が刷り上がると、カフカはその文字の大きさや版面のせいで作品が暗く、切迫して見えることに不満を抱いていた。作中でグレゴール・ザムザが変身するものは通常「虫」「害虫」と訳されるが、ドイツ語の原文はUngezieferとなっており、これは★鳥や小動物なども含む有害生物全般を意味する単語である。作中の記述からは★どのような種類の生物かは不明であるが、ウラジミール・ナボコフ(作家、詩人、昆虫学者)は★大きく膨らんだ胴を持った甲虫だろうとしている。『変身』の初版表紙絵は写実画家★オトマール・シュタルケが担当したが、カフカは出版の際、版元のクルト・ヴォルフ社宛の手紙で「昆虫そのものを描いてはいけない」「遠くからでも姿を見せてはいけない」と注文をつけていた。実際に描かれたのは、★暗い部屋に通じるドアから顔を覆いながら離れていく若い男の絵である。文具メーカー★モンブランは「作家シリーズ」の一つとして2004年に「フランツ・カフカ・モデル」の万年筆を発売したが、そのペン先には「虫」をイメージしたチャバネゴキブリらしい昆虫が彫刻された。カフカによる「虫」の抽象化には反するが、当時の西ヨーロッパにおける「虫になったザムザ」の★共通イメージとしてゴキブリが意識されていた可能性がある。
《参考1》カフカ「変身」毒虫になった男の”自分”という存在の解釈/by TERRY
https://dothelion.jp/introduce/kafka-die-verwandlungr-henshin#i-2
「毒虫」はドイツ語の原文では「Ungeziefer」なっており、これは古高ドイツ語で★「生け贄にできない不浄な動物」を意味する。実際この「毒虫」は、「狂人」や「蛙」と置き換えても物語の構造上は問題ない。つまり、虫は比喩だ。何を象徴しているのかというと、「それまで在ると信じていた(信じられていた)アイデンティティが変わり果ててしまった存在」である。カフカは「人間のアイデンティティがどう社会に存在しているのか」を、この毒虫に変わってしまった主人公とその家族との関係性を通して描いているのだ。自分視点で考えると、人間は自分が自分であるということを他者とのコミュニケーションの中で確認している。他者からの「お前はこうだから、お前に対してはこうする」という行為(評価)によって、自分の社会的存在を認識することができる。姿も行動も毒虫に変わってしまったグレゴールは、1番身近である家族から受ける扱いがガラリと変わる。家族の自分に対する扱いが「毒虫」に対するものなので、自分は「毒虫」なのだと認識するようになる。毒虫となったグレゴールがどんなに心の中で(自分はグレゴールだ)と思ったところで、コミュニケーションの術を持たず、相手にそれを伝えることもできず、家族は毒虫を毒虫としてみる。家族視点で考えれば、それは当然であることのように思える。グレゴールの余韻を感じ取っていた第1章では家族はまだグレゴールを「毒虫」として扱い切らない。しかし、第2章ではグレゴール自身も更に毒虫らしさを帯びてきて、それを観測している家族のグレゴールに対する認識は徐々に「毒虫」になっていく。そして第3章、ついにグレゴールは完全に家族ではなくただの「毒虫」として扱われる。グレゴール(=毒虫)に対して愛を失った家族は、それを消えたほうがいい化け物と定義することで、不幸の原因(元家族)を取り除こうとする自分たちを納得させる。助け合うのが前提としてあるのが家族と思われるが、その大前提にある愛がなくなると、邪魔で気持ちの悪いとなった毒虫を助けようと思うことすら不可能だ。この「変身」という不条理を持ち込まれた極端な状況下においては、愛は無条件ではないのだ。自分がどんなに「姿は変わったかもしれないけど家族じゃないか」と思ってみたところで、★自分を他者がそう扱わなければ、自分という存在はそう在れない。そして物語の最後、毒虫になったグレゴール自身、その他者からの見方を受け入れ、消えたほうがいい存在だと自分で自分を認知し、物理的にも社会的にもその存在は消滅する。心は残っていても他者が★自分に対して感じるアイデンティティが変化してしまっては、自分は姿形だけでなく、存在まるごと変身してしまうのだ。
・・・少し長くなりますが、含蓄ある「不条理」について、
《不条理》Wikiより
不合理であること、あるいは常識に反していることをさす。英語の absurd、フランス語の absurde、ドイツ語の Absurdität の訳。これらはいずれもラテン語の absurdus を語源とする。このラテン語の意味は「不協和な」。不条理とは★何よりもまず高度の滑稽である。なんらかのものあるいは人とうまく調和しないことを意味する。不条理とは通常の予測を外れた行動または思想であり、不条理な推論とは非論理的な推論である。不条理によって★ナンセンスの効果がもたらされるため、ある種の文学作品ではしばしば不条理的展開が用いられる。代表的な不条理文学としては、カミュの小説『ペスト』や『異邦人』、セリーヌの『夜の果てへの旅』、カフカの『変身』や『審判』などがある。不条理文学は第二次世界大戦に生まれ、多くの場合不条理演劇によって表現された。代表的作家としてはウジェーヌ・イヨネスコ、サミュエル・ベケット、フェルナンド・アラバル(英語版)など。現代中国文学においては高行健が集中的に取り組んでいる。 劇作家★別役実は日本における不条理劇を確立したとされている。
哲学的意味における不条理は、世界に意味を見いだそうとする★人間の努力は最終的に失敗せざるをえないということを主張する。そのような意味は少なくとも人間にとっては存在しないからである。この意味での不条理は、論理的に不可能というよりも人間にとって不可能ということである。2世紀のキリスト教神学者テルトゥリアヌスの言とされる「不条理なるが故に我信ず (credo quia absurdum) 」という言葉は、キリスト教信仰の★理性による解釈を拒絶したものといえる。理性によって不可能と判断されるイエスの復活は、まさにそれゆえにこそ確実なのだとテルトゥリアヌスは考えた。19世紀に不条理の観念に注目したのがデンマークの哲学者キルケゴールである。キルケゴールは『おそれとおののき』の中で、旧約聖書で物語られるアブラハムの逸話を解釈しながら、あらゆる倫理的義務に反してアブラハムが神に捧げるため息子を殺そうとし、その結果信仰が確証されるという物語に不条理を読み取っている。20世紀半ばに再び不条理の意識に注目したのが実存主義である。とりわけフランスで、 カミュやサルトルらによって不条理の倫理的美学的次元が探求された。実存主義において「不条理的」という形容は、既存の意味の全てを剥ぎ取られたものに対して用いられる。「不条理」という言葉が用いられる時、世界が根本的に不条理であること、人間の条件はそもそも不条理であって、無根拠であることが喚起されている。カミュは『シジフォスの神話』の中で、不条理な英雄としてシーシュポスを描いている。つまり、神々を怒らせることになるのを意に介さず生への情熱を貫徹するからである。ちなみに、決して頂上にとどまることの無い岩を、転げ落ちるごとになお運び上げ続けざるを得ないシーシュポスの苦役は神々からの処罰のためなのだが、そんなものは捨ておけという意味でカミュは、シーシュポスをその山の麓にとどめようとする。不条理主義者の哲学の中では、不条理は人による世界の意味の追究と世界の明らかな意味のなさの基本的な不調和によって生じるとされる。意味を持たない世界で意味を探す。人はこのジレンマを解決する3つの方法を持っている。キルケゴールとカミュはその解決法を著書の中で書いている。『死に至る病』と『シーシュポスの神話』である。自殺:まずシンプルな1つの方法として人生を終わらすということ。キルケゴールとカミュはこの方法が非現実的であるとして退けている。盲信:不条理を超えた何か、触れられず実験的に存在が証明されていないものを信じること。しかしそれをするには理性を失くす必要がある(すなわち盲信)、とキルケゴールは言っている。カミュはこれを哲学的自殺として考えている。不条理を受け入れる:不条理を受け入れて生きる。カミュはこの方法を推奨しているが、キルケゴールはこれを「悪魔に取り付かれた狂気」として、自殺を引き起こす可能性を論じて批判している。
不条理主義によれば、人は生きる意味を求める。この意味の追究には2つの道がある。1つは★人生に意味がないという現実的な結論からの考え、もう1つは★神のような超越者を仮定した考えである。しかし神のようなものを仮定するとまた疑問が生じる。「神の意志は何か?」キルケゴールによれば神に目的はなく、神を信じることは不条理だとしている。一方でカミュは神を信じることを、人と世界の対立を否定することで哲学的自殺としてる。だがカミュもキルケゴールも、不条理は神の存在への手掛かりではないとし、カミュは「神がいないとは言っていない、それはまだ議論の余地がある」としている。自殺は生きる意味を失った時の最も速い解決策である。カミュは『シーシュポスの神話』の中で、「自殺に価値はない。もし本当に人生がばかげていても、抗うことがばかげていても。むしろ生きる意味が与えられていないからより良く生きようと思える」としている。カミュは「諦めなしに不条理を受け入れる方法」を紹介している。「魅力なしに生きられるか」を問い、「意識的反抗」を、不条理を拒絶する世界に明示していくことである。★先天的意味や死後のさばきのない世界で、人は完全な自由を得る。この自由によって人は見えないものにすがることも、不条理の英雄として生きることもできる。これより不条理の英雄の持つ、★拒絶する意志は情熱とともに生きる彼唯一の能力となるのである。
《参考2》【モンブラン 作家シリーズ2004 フランツ・カフカ】発売年:2004年/限定数:万年筆14000本/ボールペン12000本/万年筆、ボールペン、ペンシルのセット4500セット
2004年発売の作家シリーズ(Writers Edition)。「審判」「判決」「変身」などの代表作を残し、20世紀を代表する作家の一人であるチェコ出身のユダヤ人作家、フランツ・カフカへのオマージュを込めたモデル。彼の最も有名な作品である「変身」をイメージして、ペンの形状を角形から丸形へと変化させることで、カフカの小説で描かれた変身と同様の変化を生みだしたという挑戦的な造形。天冠、クリップ、リング部にスターリングシルバー(純銀)を用いた味わい深い作り。万年筆の18金ゴールドにロジウム加工がほどこされたペン先には、「変身」の中で主人公が変身していたという「虫」をイメージしたイラストを刻印。「不条理の作家」のペンという事で、デザインの形状を途中から変化させた不思議な作りではありますが、意外に持ちやすく、普段使いにされる方も多いペンです。一見とっつきにくそうだが意外に読みやすいというカフカの小説とも共通点がありそうです。
《カフカ「変身」》/翻案:酒寄進一・画★牧野良幸
AB版 ハードカバー/32ページ/函入り/長崎出版2012
https://www.mackie.jp/books/kafka/kafka.html
カフカの名作を、銅版画によってヴィジアル化〈函入り 豪華装丁版〉カフカの小説「変身」はある日、主人公が虫に変身してしまう物語。原画は銅版画によって制作されました。本の大きさはタテが約18.5センチ。原画が、ほぼ原寸の大きさで印刷されています。オリジナル版画の色調を伝える2色刷り。さらに場面によっては効果をあげるために、特別な色を重ねてあります。
・・・長崎出版は倒産されたようですが、出版された本は「不変」「不滅」です。そして、それを即買いする私も「不変」です。