《映画》出光興産創業者は、一体どこが凄かったのか/東洋経済より
「海賊とよばれた男」監督から見た出光佐三
https://toyokeizai.net/articles/-/148803
岡田准一主演で2014年年間邦画興行収入ランキング第1位に輝いた国民的大ヒット映画『永遠の0』のチームが再集結した『海賊とよばれた男』が12月10日より全国公開となる。明治・大正・昭和の激動の時代を舞台に、名もなき一青年から身を興し、やがて戦後の日本に大きな勇気と希望を与える大事業を成し遂げていく主人公・国岡鐡造(くにおかてつぞう)の姿を描いた本作。吉岡秀隆、染谷将太、堤真一、ピエール瀧といった山崎作品に欠かせない実力派俳優陣に加え、本作で初参加となる綾瀬はるか、鈴木亮平、小林薫など、日本映画界を代表する豪華キャストの競演が実現した。この経済歴史小説に見たものは何なのか。また、スタッフを率いるリーダーとして、出光興産創業者の出光佐三氏をモデルとした国岡鐡造に何を見るのか。希代のヒットメーカー・山崎貴監督に話を聞いた。
《出光創業史料室》
801-0853福岡県北九州市門司区東港町2-3/093-332-0251
出光美術館(門司)と同じ敷地内には、出光興産の創業者であり、出光美術館の創設者である出光佐三の生涯の軌跡を紹介する「出光創業史料室」を併設しています。出光興産の創業者 出光佐三(1885-1981)は明治44年(1911)当地門司、現在の鎮西橋交差点近くに機械油の販売店「出光商会」を開店しました。創業当初は従業員数名の小さな店で、彼らからは親しみをこめて「店主」と呼ばれていました。今も出光の従業員や販売店の皆様からは「店主」と呼ばれています。店主の生きた時代は日清、日露戦争に始まり、二度の世界大戦、戦後復興、経済大国への道とまさに激動の時代でしたが、店主は一貫して「人間尊重」という理念をかかげ、事業経営に取り組んできました。出光創業史料室では「出光佐三の足跡―「人間尊重」の実践」として、7つのコーナーを設け、店主の足跡を紹介しています。
《NEWS》2020.6.19読売新聞より
出光、スタンドのロゴ「アポロ」に統一…併存「シェル」消え一本化
出光興産は19日、全国約6400か所のガソリンスタンドのロゴマークを★2021年4月から順次、統一すると発表した。現在は、出光興産と、19年4月に経営統合した昭和シェル石油のロゴが併存しているが、出光の象徴である★「アポロマーク」に一本化する。アポロマークは、ギリシャ神話に登場する太陽神アポロの横顔を模したもので、出光が1952年からロゴとして使ってきた。出光と昭和シェルがそれぞれ発行してきた会員カードも21年4月から共通化し、消費者への浸透を図る。★ロゴ統一には数年かかる見通しだ。石油元売り業界では、最大手のJXTGホールディングスも昨年7月に4種類あった系列ブランドを「エネオス」に統一した。
・・・田舎道?では「赤丸ポスト」、一般道では「アポロマーク」を見つけるのが楽しみで、めったなことで発見できないのが「耳が数字の3」アポロマークです。
企業のロゴマークは2種類存在し、燃油および自動車高級潤滑剤にはギリシャ神話のアポロンをイメージした「アポロマーク」が、工業用、船舶用の各種高級潤滑剤には同じくギリシャ神話のダプネーをイメージした「ダフニーマーク」が用いられている(これらのブランドロゴとは別に、正三角形の中に「SI」の文字を入れた社章も存在する)。「出光」の筆文字ロゴタイプ(通称・髭文字)は創業者★出光佐三の揮毫であり、同社の登録商標である。かつては広く用いられていたが、ガソリンスタンドではローマ字の「IDEMITSU」表記が中心となり、徐々に使われなくなっていた。現在は国内では★出光美術館のみでの使用となった。会社としてのロゴとしても「アポロマーク」を用いているが図柄が2006年と2020年にマイナーチェンジされており、2020年のマイナーチェンジでは同時に会社のブランドとしてのローマ字も小文字の「idemitsu」に改められている。★旧図柄は耳の部分が「いでみつ」「こうさん」「さぞう」の3つから「3」であったが改められた。2021年からガソリンスタンドのブランド統一に着手すると日本経済新聞で報じられ、その後、出光とシェルに分かれているガソリンスタンドのブランドを2021年4月以降、順次「apollostation(アポロステーション)」に統一することを発表した。このため、日本市場で外資系の石油元売りが展開する有名ガソリンスタンドが消滅するとともに、日本でも長年にわたり親しまれた貝殻マークのシェルのガソリンスタンドが、国内から★姿を消す。
《出光美術館》
100-0005東京都千代田区丸の内3-1-1帝劇ビル9階(出光専用エレベーター9階)/050-5541-8600
出光美術館は、出光興産の創業者であり、美術館創設者の出光佐三(1885−1981)が70余年の歳月をかけて蒐集した美術品を展示・公開するため、昭和41年(1966)、東京都千代田区丸の内に開館しました。美術館は皇居のお濠に面した帝劇ビルの9階に位置します。ビルのワンフロアであることを感じさせない独特の空間は、開館当初の伝統的な和の雰囲気を残しつつ、その後の改装を経て、より快適にゆったりとお過ごしいただける環境へと整備をかさね、現在に至っています。展示は日本の書画、中国・日本の陶磁器など東洋古美術が中心です。テーマに沿った内容で、年6回の展覧会を開催しています。併設として、コレクションを代表する★ルオーの作品を紹介する専用展示室があるほか、アジア各国および中近東の陶片資料を集めた陶片室は、充実した陶磁器コレクションをもつ当館ならではの施設として親しまれています。
・・・東京に行ったら、余裕があればできるだけ訪問するようにしているが、なんと言っても「仙厓」(1750~1837)コレクションが秀逸です。門司の美術館にも行って観たいなあ~
http://idemitsu-museum.or.jp/collection/sengai/
美濃国武儀郡で生まれ、11歳の頃清泰寺で臨済宗の僧となった。19歳になり行脚の後に月船禅彗の門下に入る。32歳で印可を受け再び行脚の旅に出る。39歳より博多の聖福寺の盤谷紹適の法嗣となる。住持を23年務め、一応の引退となる。88歳で遷化するまでに、多くの洒脱・飄逸な絵画(禅画)を残す。本格的に絵を描き始めたのは40代後半になってからと見られている。仙厓の絵は生前から人気があり、一筆をねだる客が絶えなかった。83歳の時、庭に「絶筆の碑」を建て断筆宣言をしたが結局やめられず、没年まで作品は残っている。昭和初期に「仙厓ブーム」ともいえるほど仙厓の研究熱が高まった時期があり、多くの作品が各地から発見され、逸話や論説が乱立した。仙厓の絵のコレクターとして★出光佐三が知られ、そのコレクションは東京の出光美術館に収蔵されている。仙厓はその奔放な生き方をもって知られており、狂歌も多く詠んだ。有名なものとしては、美濃国において新任の家老が悪政を行ったことに対して「よかろうと思う家老は悪かろう もとの家老がやはりよかろう」という狂歌を詠んだ。後に美濃国を追放された際には美濃国と蓑を掛詞とし「から傘を広げてみれば天が下 たとえ降るとも蓑は頼まじ」とうたった。また、絵を依頼に来る者が後を絶たないことについても、「うらめしや わがかくれ家は雪隠か 来る人ごとに紙おいてゆく」と誰もが来ては紙を置いていくことを自分の家を便所に擬えた狂歌を残している。辞世の言葉は★「死にとうない」だったという逸話がある。ただし、同様の逸話は一休宗純にもある。
・・・この「〇△□」「〇」を観ると、勇気がわいてくるのです。