・・・「美木多」「若松台」さらに「宮山台」へ。
《590-0101堺市南区宮山台2-1-5》
《宮山公園》590-0101堺市南区宮山台2-1
https://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/koen/area/minami-ku/miyayama.html
《荒山公園》堺市南区宮山台2-3
https://www.city.sakai.lg.jp/smph/kurashi/koen/shokai/kozen/index.html
多治速比売神社の敷地の一部を取得し、昭和57年に開設された、公園面積約17万平方メートルの総合公園で、梅林が有名です。梅林は、総面積約2万7,000平方メートル、昭和59年から昭和60年にかけて整備されました。現在、50品種・約1,200本あり、2月中旬から3月上旬に見頃を迎えます。また、この他にも1月初旬には蝋梅(ロウバイ)、3月中旬には山茱萸(サンシュユ)、4月初旬には約700本の桜、8月中旬には坊主池の蓮と一年を通して、長い期間花を楽しむことができます。
・・・もともとは★「泉北タカシマヤ」屋上にあった新宮晋さんの「風のあいさつ」を移設。
590-0115堺市南区茶山台1-3-1/072-293-1101
https://www.takashimaya.co.jp/senboku/
残念ながら修復が必要な姿に、「助けてくれ~」って呼んでいたのかもしれません。あらたに「付箋」をつけておきたいと思います。
・・・帰路、間口運輸の「カエル」トラックに遭遇、何かいいことありそうな。大阪狭山市(狭山池)を抜けて富田林市へ。
【池田遊子】 (1909~2006)
広島県深安郡手城村(現福山市)に生まれた。19277年に上京し、宮彫師(佐藤藤太郎一重)に入門。以後独学で直彫り立体彫刻を研究し、卓抜した彫技を見せる伝統的な木彫作品を制作した。戦後は大阪市立美術館の天井裏を工房として、前衛的な抽象彫刻を手掛けた。自然の姿の模倣に終始するアカデミズムに対して、自然の法則の上にたって思想感情を表現する立場を強調し、関西におけるアバンギャルド美術の先駆をなした。後に「ミュージアムの怪人」と評される。1951年には「ピカソ展」の向こうを張る形で、大阪市立美術館にて「池田遊子個人展」を開催。「ピカソが藝術家なら俺も藝術家だ」と大気焔をあげたことは語り草となっている。1965年に枚方の地に★(財)天門美術館を創設。
573-0049枚方市山之上北町3番1号/072-841-0006
http://tenmon-museum.com/index.html
ここが後進育成と自身の研究活動の拠点となり、自作の造形作品を展示一般公開する。終生旺盛なる創作活動を展開し、具象抽象に拘泥しない自由闊達な作品を次々制作し、純然たる造形美術家として生計を成した。殊に1987年に枚方市から委嘱され制作した高さ17mのモニュメント「恒久平和像」(王仁公園)は、平和都市枚方の為の公共野外彫刻として建立された。生涯にわたってどの美術団体にも属さず、世俗的栄誉にも無縁であった為、知る人ぞ知る隠逸の彫刻家であった。まさに在野にて独歩自尊を貫き、藝において自在に遊ぶという生き様が、没後心ある美術関係者によって注目されつつある。
・・・久しぶりに「富美ヶ丘」のポストも見ておこうと寄り道、なんと「灯台(ポスト)下暗し」に自分でもびっくり。
《希望》作:河合紀1962
河合紀さんは大正15 年、京都五条坂の陶芸家・河合卯之助氏の長男として生まれ、その活動は花瓶や茶器など伝統的工芸陶器の創作から、建築物の内外の壁面を構成する陶壁の創作までに多岐に及びます。制作した陶壁の面積は小型のものから100㎡ 以上の大型まで作品数は1000 点以上、その大胆な作風に人気も高く、日本を代表的する陶壁作家のひとりです。主な作品は京都駅、北京空港のレリーフが有名です。河合さんは大柄な体格で穏やかに話しますが、京都の人には珍しく、まわりくどさを嫌い明確に直言される方と云われました。また、海外との交流も多く、中国では清華大学の客員教授も努めました。昭和49年紺綬褒賞受賞、平成 14 年 5 月に逝去されました。
https://www.ymm21.jp/database/detail/post-101.html
http://www.akanekai.org/alacarte/relie.htm
・・・以前「赤丸ポスト」を「見つけ」喜んでいたわけですが、全然「見えていなかった」ということです。幸い「赤丸ポスト」という付箋のおかげで、大切なことに気付くことができました。