堺市の国宝 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「赤丸ポスト」に導かれて、堺市で唯一の「国宝」と出会うことができました。

 

《櫻井神社》

590-0121堺市南区片蔵645/072-297-0043

https://www.sakai-tcb.or.jp/about-sakai/eetoko/12_7.html

二重虹梁蟇股式の架構法と割拝殿形式です。拝殿は昭和28年に国宝建造物に指定を受けた市内唯一の国宝です。★鎌倉時代の建築で、現存する拝殿建築の中でも最も古いもののうちのひとつ。木造切妻造・本瓦葺で屋根の勾配が緩く、軒廻りは円柱の上に舟肘木を置き桁を受けています。妻飾は梁間いっぱいに大虹梁(こうりょう)を架けて、2個の蟇股(かえるまた)を置き、その上に虹梁を架け蟇股を置いて棟木を受ける「二重虹梁蟇股式」の古い構築法です。蟇股の形が簡単な板状のもので、梁の両端に彫刻がないなど鎌倉時代の建物の特徴といえます。

https://www.city.sakai.lg.jp/smph/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/kenzobutu/sakuraijinja.html

 

★「上神谷(にわだに)地区」について

https://niwadani.ojaru.jp/intro.html

当社は上神(にわ)郷の総氏神として当社一帯の広い範囲で崇敬を受けてきました。『倭名類聚抄』和泉国大鳥郡に「上神(かみつみわ)郷」の記載があり、古い地名ですが、現在は地名としては消失し、付近の施設名に「上神谷」が冠せられる程度となっています。当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、当地に居住した蘇我系の氏族である「桜井氏」が祖神の武内宿祢を祀ったと伝えられています。『新撰姓氏録』左京皇別に蘇我石川宿祢の四世孫、稲目宿祢大臣の後裔であるという「桜井朝臣」が登載されています。この氏族が和泉国にも居住し当社を奉斎したと考えられています。

 

・・・いろいろ調べると、鎌倉建築ということについては共通するものの、「前期」「中期」など微妙な違いがあった。

★桜井神社拝殿の特異性とその謎

https://www.travel.co.jp/guide/article/5690/

現在の割拝殿の形態は建造当初からのものではないということになり、いつ、どのようなきっかけで現在の形態に改変されたのか、いよいよ謎が深まります。その点でも興味深い国宝建造物であるといえるでしょう。謎が深まります。その点でも興味深い国宝建造物であるといえるでしょう。

《参考》大阪文化財ナビより

●「和様」

https://osaka-bunkazainavi.org/glossary/%e5%92%8c%e6%a7%98

広義的に、日本の伝統的な様式・形式などを示す総称として使われる用語である。

 飛鳥時代、中国の唐を中心とする様式が直輸入された初期のものに始まり、奈良時代を通じて徐々に国風化が進み、平安時代に入り、国内における日本的な形姿として一応の完成が見られ、「和様」の様相が定まる。近藤豊著「古建築の細部意匠」には「その表現は、建築の構成要素を見ると、皆おおらかなゆったりとした感じで、曲線も悠々迫らざるものがある」と記されている。

 鎌倉時代に入り、「大仏様」「禅宗様」といった様式が新たにもたらされ、「和様」はその影響を受けつつ「折衷様」と呼ばれる新様式を生み出すに至る。しかし、その後「和様」の建物が造られなくなった訳ではない。「貫構法」などを一部導入しながらも、その形姿を引き継ぎ、意匠的に「和様」と呼べる建物は、室町時代・桃山時代・江戸時代を経て、今日に至るまで連綿として造られ続けているのである。平安時代に完成を見た「和様」の特徴を列記してみる。柱基部は「礎石」の上に円筒形の「円柱」を建てる。組物の「肘木」下部は、滑らかな曲線。「中備」は「間斗束」「蟇股」といった「阿麻組」。水平材は、柱に抱かせた「長押」と呼ばれる構造材。「尾垂木」は「反り」と「増し」が付く。支輪は「蛇腹支輪」。「虹梁」は、梯形(台形)の断面。垂木は、基本「二軒」で「地垂木」「飛檐垂木」ともに「角」であり、「地円飛角」ではない。扉は「一枚板戸」「端喰戸」「蔀戸」「半蔀戸」で、窓は「連子窓」。「妻飾」は「豕扠首」「虹梁蟇股」形式をとる。彩色は、外部は「丹塗」で、内部は「極彩色」で荘厳する。その中で、「和様」を最も特徴づけている要素といえは、おそらく構造材としての「長押」であろう。水平線を基調とする様式美が生まれ、後世、特に「内法長押」を基準とする「木割」の技法が定着し、日本住宅の原型である「書院造」において、「格式」を決定し象徴する要として生き残っていくこととなる。

 

●「大仏様」

https://osaka-bunkazainavi.org/glossary/%e5%a4%a7%e4%bb%8f%e6%a7%98

鎌倉時代の初め、東大寺復興に際し、僧重源と宋人陳和卿が、中国福建省の建築様式と伝統的な「和様」をもとに考案した新しい建築様式である。平安時代の末に、平重衡(清盛の末子)による南都焼き討ちがあり、興福寺は全焼、東大寺も三棟ばかりを残し焼失する。この両寺の復興が、鎌倉初期の建築界における一大事件となる。復興に当たって、藤原氏が大檀那である興福寺は、平安以来の「和様」を順守した。(今も、その時の遺構として境内の南西に三重塔が残る)すなわち、構造体としての「長押」を多用した木材使用量のかさむ方式を採用し、近辺の木材は藤原氏によって押さえられてしまう。一方、官寺である東大寺の復興は、材料入手に難渋を極め、私度僧であった俊乗坊重源に白羽の矢がたつ。彼は、各部材を規格化し、最小の材での大構築を可能とする、「長押」を使わない「貫構法」を考案する。「挿肘木」や天井を張らない「構造即意匠」の「化粧屋根裏」の採用は、当時画期的なことであった。とはいえ、あまりの斬新な印象やその特異な表現、さらには柱の貫通穴の欠損の問題などがあり、重源の示寂とともに「大仏様」の建物はその後造られなくなる。しかし、「挿肘木」「通貫」の手法や「木鼻」の手法は、「和様」にも、また後に輸入される「禅宗様」の建物にも影響を与える。「大仏様」の特徴を列記してみる。柱基部は、円柱を礎石の上に建てる「和様」と同様のもの。「肘木」は「挿肘木」で前後のみに挺出する。「長押」は用いず、貫孔を彫り「通貫」を多用する。「尾垂木」は柱頭部に組み込めないため「遊離尾垂木」とする。「軒支輪」はなし。「中備」は「遊離尾垂木」の支点となる蟇股風の材が入る。「虹梁」は、太い円形断面で、両端を細く絞り込んで納め、下部に「錫杖彫」を施す。束は、円形の「円束」。

 垂木は、建物の出隅を「扇垂木」とする「隅扇垂木」で、垂木の小端に「鼻隠板」を打つ。「木鼻」は、独特のグリグリ繰型で彫刻は施さない。天井は、すべて「化粧屋根裏」。扉は、「棧唐戸」と似たものであったらしいが不明、だだし「藁座」は設ける。彩色は、内外部とも「丹」「黄土」「緑青」「胡粉」などを塗るが文様・絵画は施さない。その遺構は極めて少なく、小野の浄土寺浄土堂と東大寺の南大門の二例のみである。

●「禅宗様」

https://osaka-bunkazainavi.org/glossary/%E7%A6%85%E5%AE%97%E6%A7%98

鎌倉時代初めに「大仏様」が伝来して間もなく、禅宗が栄西(一般には「えいさい」、建仁寺では「ようさい」と読む)禅師らによって、南宋から伝えられたのと一緒に、まったく新しい建築様式が輸入された。これまでの主流であった「和様」とは、ほとんど全てにおいて異なる新規の様式であった。建築される堂宇は、比較的小規模のものが多く、細部は内外ともに繊細、技巧的、装飾的であり、日本人の好みに合ったのか、この「禅宗様」は、ずっと後世までも様式の純粋性が遵守される傾向が強い。近藤豊は著書で「全体の姿も、和様を[低平穏和]と現わせば、禅宗様は[狭高繊細]とでもいえるだろう」と記している。「禅宗様」の特徴を列記してみる。柱基部は、「粽柱」と呼ばれる、上下を曲面状に絞った円柱を「礎石」の上に置かれた「礎盤」上に建てる。肘木下部の曲線は、四分の一の円弧。水平材は、「頭貫」の上に「台輪」を据え、「大仏様」と同様に「貫構法」をとり、勿論「長押」は一切用いない。「尾垂木」の先端が細くなり、上面に「小返し」を施した「鎬」がつく。「中備」は、柱上の「斗栱組」と同様のものを二・三組配する「詰組」と呼ばれる形式をとる。「虹梁」に「海老虹梁」が使われ始め、「袖切」「眉」「錫杖彫」の装飾が施される。束は、この様式の典型的な特徴である「大塀束」で、下部に「結綿」と呼ばれる装飾がつく。垂木は、「二軒」の「角」で、重層建物のときは、上層を「扇垂木」下層を「隅扇垂木」とする。「木鼻」には、「拳鼻」「象鼻」などの装飾繰形を施す。床は張らず土間で、敷瓦の「四半敷(45度)」とし、仏事には布を敷く。天井は、中央部分が「鏡天井」で、その他は「化粧屋根裏」とする。出入口・窓には、この様式の意匠的特徴である、独特の曲線をもった「花頭窓」「花頭縁」を用いる。欄間は、「弓連子(波連子)」。建具が、框組で軽量化された「棧唐戸」を上下の「藁座」で吊る。「妻飾」は、「虹梁大塀束」の形式とる。彩色は、「三門(三解脱門)」上層内部には極彩色を施すが、他は小口のみ「胡粉」を塗り、原則、彩色をしない「素木」である。現存する禅宗建築の最古の例は、海南市の善福院釈迦堂で、次に下関の功山寺仏殿があり、ともに鎌倉時代建立の国宝建築として貴重である。鎌倉の円覚寺舎利殿(神奈川県唯一の国宝)や東村山の正福寺地蔵堂(東京都2国宝の一)も古いが、時代が降り室町時代の建立といわれる。余談であるが、多治見の栄保寺観音堂は、「詰組」のない「和様」の混在する特異な例として知られている。

 

●「折衷様」

鎌倉時代に入ると、従来の「和様」に新来の「大仏様」「禅宗様」が加わり、★三様式が並立する形となる。その流れにあって、意識的に三様式を混在させる「折衷様」の手法化が定まるまでには、相当な時間がかかる訳で、巧みなものは南北朝・室町時代になってからである。河内長野の観心寺金堂と加古川の鶴林寺本堂がその代表例といわれる。それ以前の過渡期の例として、重源の跡を継ぎ東大寺勧進職を務めた栄西禅師の造った東大寺鐘楼がある。「大仏様」と「禅宗様」が混然とした、いわば様式の埒外にあり「折衷様」とは呼び難いが、とても豪壮な建物である。「折衷様」自体に定まった様式の特徴がある訳ではない。どのように三様式が混在しているのかを、観心寺金堂を例にあげて列記しみる。柱基部には、面取り方柱を「礎石」の上の「礎盤」に乗せるという「禅宗様」である。柱上部の肘木下部の曲線は端部で垂直に切られた「和様」であるが、「中備」の二つ斗(双斗)そのものは「大仏様(禅宗様とも)」で、四分の一円の円弧である。(明らかに使い分けている)外部廻りは、「和様」の「切目長押」以外の「長押」をなくし、「禅宗様」の「内法貫」「藁座」「棧唐戸」を用いている。ただし両端の「連子窓」は「和様」である。垂木の「二軒」の「角繁垂木」も「和様」である。(付け加えるに、内部の内陣の厨子には「内法長押」が用いられているのが面白い)「通貫」や「挿肘木」は、「大仏様」の導入。内部の束の「大塀束」と「妻飾」の「虹梁大塀束」形式は「禅宗様」。「頭貫」の端部の「木鼻」も「禅宗様」であるが、やや彫が浅く彩色で線描されている。凡そ、以上のようになるが、基本を「和様」に置き、構造的には「大仏様」を、そして意匠的な装飾部位には「禅宗様」を導入し、まとめ上げた「折衷様」であるといえる。余談である。時代が降ると、三様式を意識的に使い分けることが少なくなり、混然とした作例が多くなっていく。もはや「折衷様」と呼ぶよりは「混淆様(一般用語ではない)」とでもいうべき様相を呈するに至る。中でも、偏愛に近い引用例といえば「花頭窓」がひとつ挙げられるだろう。元は「禅宗様」であるが、宗派の違いのみならず、宗教建築以外のあらゆるところにも採用されていく。後世、日本人は「わび・さび」を志向する精神性をもつ一方で、存外「装飾好き」な一面を合わせて持ち続けていくこととなる。そのあたりの事情は「草庵」「数寄屋造」の項を参照のこと。

 

★秋祭り(上神谷のこおどり)

https://www.city.sakai.lg.jp/smph/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/minzoku/koodori.html

雨乞いと豊作を祈願する「上神谷のこおどり」が奉納されます。ヒメコと呼ばれる魔除けの紙花を挿した竹籠を背負った鬼神2人と、三尺棒を持った天狗2人を中心に、総勢18人が国宝拝殿前で、鉦と太鼓で踊る神事芸能です。國神社で奉納された後、道歌を歌いながら練り歩き、櫻井神社へ向かいます。室町時代の風流踊りの影響がうかがえ、国の選択無形民俗文化財に指定されています。当日は、「氏子入り」「お神楽」「地車の宮入り」「秋季例大祭祭典」がこおどり奉納の前に行われます。

 

《古跡「櫻井」》

境内西側の妙見川に架かる宮橋端にある、御祭神に縁故が深く和泉名所図絵にも記載の古跡「櫻井」。かつては清水湧出により枯渇することがなく櫻井井戸と称されましたが、明治時代の河川氾濫で埋没、その後古跡として整備されましたが井戸は現存しません。