羽曳野うろうろ(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・羽曳野市と言えば「世界遺産」、私たちの校区(古市小学校、誉田中学校)にあるのが、

 

《世界遺産課》

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/sekaiisan_bunkazai/sekaiisan/index.html

★応神天皇陵古墳外濠外提に咲く「菜の花の摘み取り」について

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/sekaiisan_bunkazai/sekaiisan/torikukmi/11742.html

4月5日(月)から4月末まで。ただし開花の状況で、そのピークが過ぎていることもあります。ご了承ください。応神天皇陵古墳外濠外堤に咲いた菜の花を自由に摘み取って、お持ち帰りいただく期間を設けます。期間中はどなたでもご自由に花畑の菜の花を摘み取って、お持ち帰りいただけます。詳細は下記をご覧ください。菜の花が咲いている場所は、日本最大級の古墳である応神天皇陵古墳の雄大さを間近に体感していただくことのできる場所です。皆様お誘いあわせの上、お越しください。

 

★古市エリア古墳リスト

http://www.mozu-furuichi.jp/jp/learn/mozu_furuichi_furuichi_list.html

 

・・・世界遺産に登録された古墳はもとより、その他の古墳も大切にしたいものです。

 

隼人塚古墳:方墳20m/雄略天皇陵古墳(島泉丸山古墳):円墳75m/雄略天皇陵古墳(島泉平塚古墳) :方墳50m/割塚古墳:方墳30m国史跡/衣縫塚古墳:円墳20m/宮の南塚古墳:円墳40m/唐櫃山古墳:帆立貝形墳59m国史跡/松川塚古墳:方墳25m国史跡/赤面山古墳:方墳22m国史跡/サンド山古墳/蕃所山古墳:円墳 22m 国史跡/野中宮山古墳:前方後円墳154m/稲荷塚古墳:帆立貝形墳50m国史跡/仁賢天皇陵古墳:前方後円墳122m/野々上古墳:方墳20m/清寧天皇陵古墳:前方後円墳115m/小白髪山古墳:前方後円墳46m/安閑天皇陵古墳:前方後円墳122m/春日山田皇女陵古墳:前方後円墳85m

 

・・・藤井寺南小学校HPに掲載されている「古市古墳群」資料はとてもわかりやすく素晴らしい、ぜひ参考にしてください。

http://academic3.plala.or.jp/fujinan/fujisi/kohungun/gun.htm

多くの古墳で成り立つ古市古墳群ですが、残念ながら現存する古墳は、44基だけです。あとは、建物や道路の建設で墳丘が壊されて消えてしまったもの(消滅古墳)、ずっと昔に壊されてしまっていて最近の発掘調査で存在がわかったもの(埋没古墳)なのです。何しろ1500年ぐらいも前に造られたものであり、長い歴史の中でいろいろな変化が起きるのもやむを得ないことでしょう。今後の発掘調査でも埋没古墳が見つかる可能性は高く、この地域の古墳の数はさらに増えていくと思われます。藤井寺市域の古墳は130基の内の90基で、その中の27基が現存しています。つまり、古市古墳群のうち、古墳の総数では約7割が、現存古墳では約6割が藤井寺市にあるということなのです。ちなみに、27基の現存古墳の内、11基が★藤井寺南小学校の校区内に存在しています。これは、市内7小学校区の中で最多の数です。

 

・・・「消滅古墳」そして存在すら知られていない「埋没古墳」、世界遺産登録をきっかけにさらなる研究が進められることを祈るばかりです。

 

・・・「隼人塚古墳」がなかなか見つからず、近所の方に教えていただいてやっと発見した苦い思い出もあります。さらに、今回は上記リストに掲載されていない古墳に行ってきました。

 

《庭鳥塚古墳》羽曳野市東坂田

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/sekaiisan_bunkazai/bunkazai/bunkazai/iseki_shokai/kofun_zenki/2372.html

古墳は東阪田の旧国道の脇にあり、石川の左岸の標高40メートルの低位段丘に立地しています。平成17年に土取り工事で粘土槨が露出し、緊急調査が実施されました。

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/shiminjinken/shimin_kyodo/gallery/bunkazai_shiryo/1404.html

発掘で粘土槨には、組み合わせ木棺の痕跡が残り、棺内に三角縁神獣鏡、鉄刀、鉄剣、勾玉の副葬が確認できました。また、木棺の側辺から筒形銅器、鉄鏃、鉄剣、鉄刀、鉄ヤリ、籠手、銅鏃、鉄斧、鉄鎌、鋸などが発見されました。その後の調査で、古墳時代前期の墳丘長約60メートルを測る前方後方墳と判明し、円筒埴輪や葺石の存在が明らかとなりました。

 

★戦後の高度経済成長で姿消した古墳も(青木敬)/國學院大学メディアより

https://www.kokugakuin.ac.jp/article/126625

大阪府南部の堺市、藤井寺市、羽曳野市に90基ほど点在するのが百舌鳥・古市古墳群です。墳丘長が400mを超える大山古墳などの巨大な前方後円墳も含まれ、世界文化遺産の対象には★49基が選定されています。4世紀後半から5世紀後半が成立時期で、一人の権力者が巨大古墳を造り、後継者が先代をまつると同時に自ら別の巨大古墳を築造するという繰り返しで古墳群が形成されたと考えられます。

古墳を考える上で、埋葬施設としての機能や当時の政治体制・暮らしぶりを研究するのとは別の側面もあることを忘れてはいけません。以前は文化財に対する認識が十分に浸透しておらず、★古墳から取った土の方が土地よりも高く売れた時代もありました。「土を取って平らにしたら家を建てられるから二度美味しい」という勢いで、どんどん宅地にされてしまいました。百舌鳥古墳群のイタスケ古墳も池に囲まれた環境を売りにしようと造成が始まりましたが、保存運動が起きて中止に追い込まれています。百舌鳥・古市古墳群は戦後の文化財保護の歩みを考える上で重要な存在となっています。

一方、百舌鳥・古市古墳群で緊急調査が増えたために考古学が進歩したことも事実です。宅地化によって消滅した★経塚古墳という帆立貝形古墳から多数の埴輪が出土したのですが、この埴輪がその後の研究に大きな役割を果たしました。

経塚古墳の埴輪を研究したのは私の國學院大學での師匠・吉田惠二先生で、雑誌『考古学研究』に掲載された「埴輪生産の復原」という論文が埴輪研究の大きな画期となりました。吉田先生は5世紀に朝鮮半島から伝わってきた須恵器に注目し、須恵器を焼く窯で埴輪も焼くようになったために窯に入るサイズまで埴輪が小さくなったこと、円筒埴輪の表面に残る痕跡などを手掛かりに円筒埴輪製作に従事した工人と生産体制を推定しました。百舌鳥古墳群や古市古墳群の古墳研究は巨大古墳だけがターゲットだったのではなく、★消滅した数多くの古墳のデータからも研究が進められたことを強調しておきたいと思います。

 

・・・言うまでもなく、「世界遺産登録」は観光地化が目的ではなく、未来への遺産の保護・継承にあるわけですから、私たち一人ひとりの意識と知識を高めていく努力が重要だと思います。