羽曳野うろうろ(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《野中寺》

583-0871羽曳野市★野々上5丁目9-24/072-953-2248

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/sekaiisan_bunkazai/bunkazai/bunkazai/iseki_shokai/asuka_nara/2418.html

野中寺は、聖徳太子が建立した46寺院のひとつで、太子の命により蘇我馬子(そがのうまこ)が造ったと伝えられ、南河内郡太子町★叡福寺(えいふくじ)を「上の太子」、八尾市★大聖将軍寺(たいせいしょうぐんじ)を「下の太子」と呼ぶのに対し、野中寺は「中の太子」と呼ばれています。本寺は丹比郡野中郷を本拠としていた渡来系氏族の船氏の氏寺ではないかと言われています。丹比道(たじひみち)(後の竹内街道)沿いに南大門を構え、七堂伽藍(金堂・講堂・塔・食堂(じきどう)・鐘楼(しょうろう)・経蔵・僧房)を備えた大寺院でしたが、南北朝時代の戦火によって焼失しましたが、江戸時代に山城国の僧・覚英(かくえい)が律宗の戒律道場として再興し、丹南藩主の高木氏や狭山藩主の北条氏、大和郡山藩主柳沢氏の帰依をうけて、本堂・薬師寺・経堂・鐘楼・地蔵堂・僧房などが建立されました。また、大和郡山藩主柳沢吉里(やなぎさわよしさと)が寄進した別邸を移築して客殿・仏間・食堂とし、方丈(寺院の長老の居所)や勧学院(僧侶講学の機関)として使用されました。境内には三重の塔や金堂跡など飛鳥時代の伽藍の一部が残されていて、国の史跡に指定されています。

https://yakushi49.jp/14yachuji/

 

《重文「金銅弥勒菩薩半跏思惟像」》

1918年蔵内から発見。像高18.5cm、全長30.9cm。666年の銘文が台座に刻まれ、飛鳥・奈良期の特徴を示します。1918年製作の贋作との残念な説もあります。

 

《ヒチンジョ池西古墳》/羽曳野市はびきの3丁目

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/sekaiisan_bunkazai/bunkazai/bunkazai/iseki_shokai/kofun_shumatsuki/2403.html

塚穴古墳(来目皇子墓(くめみこのはか))の西方にあった古墳で、昭和23年頃の開墾(かいこん)の際に発見された横口式石槨の古墳です。横口式石槨は精巧に加工した凝灰岩(ぎょうかいがん)を組み合わせて作られています。内部からは銅製釘や黒漆(くろうるし)の残片が見つかっているので、漆を塗った木棺が安置されていたと考えられます。横口式石槨の形態などから7世紀末葉に築造されたものとみられます。この石槨は、発見直後に★野中寺境内に移され昭和48年(1973)に大阪府指定文化財になり、平成6年から8年(1994から1996)には保存修理が行われました。古墳のあった羽曳野丘陵一帯はかつて寺山と呼ばれ、同じような終末期古墳や奈良時代の火葬墓(かそうぼ)がたくさんみつかっています。これらは、おそらく周辺に居住していた渡来系氏族たちの墳墓と考えられます。

 

https://travel-minakawa.com/2020/02/05/yatyuuji/

かつてこの場所には「聖徳太子像」と伝わる朝鮮風石像が設置されていました。実際にはいつ、誰が、誰をモチーフにしたかわかっていません。現在は、京都★高麗美術館にて保管されています。聖徳太子石像跡の左奥は墓地になっています。この墓地には「お染めと久松の墓」が存在します。お染めと久松は、浄瑠璃や歌舞伎の演目「野崎村」のモデルとなった人物。野崎村は大阪府大東市にあり、野崎観音で知られています。「野崎村」のあらすじは、野崎村に住む久作には養子の久松と連れ子のお光がいました。久作は将来、久松とお光を結婚させようと思っていましたが、久松は奉公先の天王寺屋の娘お染めと恋仲になります。しかし久松は奉公先で妬まれ、店に居辛くなり野崎村へもどることに。そんな久松に養父の久作は、お光と結婚しろとプレッシャーをかけます。そんな所に野崎参りと称して久松の所にお染めが押し掛け・・・というお話です。お染めと久松の墓は、天王寺屋により2人の17回忌に建てられました。★天王寺屋は、野中寺の学問所の有力な後援者の1人だったことから、2人の供養を野中寺で行ったと考えられています。

 

・・・いつか「高麗美術館」に行ってみたいと思います。

 

《お染久松》

http://enmokudb.kabuki.ne.jp/phraseology/3517

浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎(かぶき)などの登場人物名。『戯場年表』や『実事譚(じつじたん)』などでは、1708年(宝永5)大坂・東堀の質店油屋の丁稚(でっち)久松が主家の幼女お染を誤って水死させ、申しわけに土蔵で首を吊(つ)って自殺したのが実説とされるが、良家の娘と奉公人の情死として評判になり、歌祭文(うたざいもん)に歌われ、戯曲でも多くの「お染久松物」を生んだ。浄瑠璃では紀海音(きのかいおん)の『お染久松袂(たもと)の白(しら)しぼり』(1711)が最初の作で、菅専助(すがせんすけ)作『染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)』(1767)、近松半二作『新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)』(1780)が有名。歌舞伎では『心中鬼門角(しんじゅうきもんのかど)』(1710)が最初の作で、4世鶴屋南北の『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』(1813)、舞踊劇『道行浮塒鴎(みちゆきうきねのともどり)』(1825)などが知られる。

 

《元野中寺伽藍礎石位置》

中門跡より40mほど南の位置が、かつて南大門のあった場所です。竹之内街道に面した小さな交差点にある碑。高燈籠が目印。

 

《法泉寺》

583-0871羽曳野市野々上3-4-32/072-955-9548

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/sekaiisan_bunkazai/bunkazai/bunkazai/iseki_shokai/bukkaku/2444.html

この寺は、藤井寺・羽曳ヶ丘線を北に進み、野中寺南大門跡の手前、東側に位置しています。野中寺の別院として存在していましたが、宝暦(ほうれき)年間(1751~1764) に独立して真言宗から黄檗宗へと改宗し、寺院名も「宝泉寺」から「法泉寺」に改名されました。この時、★野中寺の観音堂に安置されていた「聖観音立像」が法泉寺に移されて本尊となりました。さらには、高さ3メートル、体重300キログラムを測る巨大な★弁財天(べんざいてん)の立像が安置されており、江戸時代には河内地方における弁財天信仰の中心地にもなっていました。その他にも、室町時代に制作されたといわれる「経卓(きょうたく)」があり、現在、大阪府の指定文化財となっています。