伊東忠太 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《俳聖殿(はいせいでん)》設計:伊東忠太

518-0873伊賀市上野丸之内117-4(上野公園内)/0595-43-2315( 伊賀市都市計画課)

http://www.basho-bp.jp/?page_id=56

上野公園(伊賀上野城)内にある松尾芭蕉生誕300年を記念する木造建築物。1942年(昭和17)に建築家★伊東忠太の設計で建設された。外観は、★川崎克の着想を元に伊東忠太が仕上げたものであり、松尾芭蕉の旅姿を模したものされ、上層の屋根が笠、下部が顔、下層のひさしは蓑と衣姿、堂は脚部、回廊の柱は杖と脚を表している。下層八角形平面、上層円形平面の木造建築であり、屋根は桧皮葺である。内部には芭蕉祭当日に表彰される顕詠俳句特選句が飾られている。芭蕉の命日である10月12日には、伊賀市により芭蕉祭が行われ、安置されている大伊賀焼の等身大の『芭蕉坐像』(★川崎克の作)が公開されるほか、俳句の優秀作品等が表彰される。2008年(平成20)3月19日、三重県の有形文化財(建造物)に指定され、2010年(平成22)には国の重要文化財に指定された。

 

【伊東忠太】(1867~1954)

少年時代を東京、佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者で、★法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。また、それまでの「造家」という言葉を「建築」に改めた。「建築進化論」を唱え、それを実践するように独特の様式を持った築地本願寺などの作品を残す。1943年(昭和18)には建築界で★初めて文化勲章を受章した。

★円柱の中央部に膨らみをつけて立体感を付ける技法をエンタシスという。法隆寺の支柱の胴張りとギリシャ建築のエンタシスを関連づけた忠太の学位論文(1893)は、具体的証明を示していない。和辻哲郎の『古寺巡礼』(1919)で広まり、日本はシルクロードの終着点、といった言説とともに日本でよく語られる説であるが、★学問的には立証されていない。

★「Architecture」は「造家」と訳され、建築関係の団体も造家学会(1886)創立と称していたが、忠太は、「造家」では芸術的な意味合いが抜けているので「建築」と訳すべきと提唱した(1894)。もっとも、造家学会の機関誌は1887年(明治20年)の創刊時から「建築雑誌」であった。

★1923年(大正12年)6月、伊東と共同で啓明会の補助金で沖縄の文化の調査を行っていた鎌倉芳太郎東京美術学校助手は、新聞で首里城正殿が3日後に取り壊しになることを知り、共同研究者の伊東に急遽連絡し、伊東はまた、歴史学者の黒板勝美と協議、内務省に取り壊し中止を要請する。中止の電報が届いたのは取り壊し寸前だった。

 

《NEWS》2019.11.1AERAより

首里城焼失に復元事業の権威が落胆「沖縄伝統木材の調達が困難か」

明治政府は武力を背景に琉球藩を廃止し、沖縄県を設置。これにより、約450年間にわたる琉球王国は幕を閉じ、旧国王は東京移住を命じられた。琉球王国の政治や文化の中心で国王一家の住まいでもあった首里城は、その後、旧日本軍(熊本鎮台分遣隊)の兵舎として使用された時期もあったが、やがて「空き家」状態になった。1912(明治45)年、首里城内に小学校(当時尋常高等小学校)が建てられると、荒廃した正殿が倒壊すると危険との判断から取り壊しが検討された。この動きを止めたのが、東京帝国大学教授★伊東忠太(1867~1954)たちだ。1923年に沖縄で文化調査を行っていた伊東らは、正殿の取り壊しが間近に予定されていることを知り、内務省に保存の重要性を訴え、取り壊しの中止を要請。この電報が届き、取り壊しは寸前で回避された。当時、文化財保護法は制定されておらず、城は1897年制定の古社寺保存法の対象外だった。このため、伊東たちは正殿の背後に沖縄神社を新たに建て、正殿を神社の拝殿と位置付けることで国の予算で修復できるよう取りはからった。その後、正殿は国宝に指定。1929年制定の国宝保存法に基づき国の責任で保全されるようになった。しかし、1945年の沖縄戦で焼失。戦後、58年に守礼門が復元され、86年には国が国営公園整備事業として首里城の復元を決定した。このとき、奈良文化財研究所所長の職にあった鈴木さんは、木造建築の専門家として再び首里城復元に関与することになった。(以下略)

 

・・・とにもかくにも、すごい建築家です。

 

《参考》「芭蕉旅笠」

http://igaueno-castle.jp/?page_id=28

芭蕉の形見の渋笠を埋めたとされる笠塚のある滋賀県彦根市の明照寺に伝わった笠。★川崎克氏が入手し、★伊賀上野城の所蔵となった。芭蕉と寺の住職、李由の句が記されています

 

【川崎克】(1880~1949)Wikiより

政治家。長男に経済学博士の川崎勉、次男に元厚生大臣の川崎秀二がいる。元厚生労働大臣の川崎二郎は孫にあたる。三重県伊賀上野(現★伊賀市)出身。生家は油屋である。1898年(明治31)に、政治家を志して同じ郷土三重県出身の尾崎行雄を頼って上京した。日本法律学校(現在の日本大学)で法律を学び、東京外語学校(現在の東京外国語大学)でフランス語を学んだ。1903年(明治36)に東京市長であった尾崎の下で東京市の書記を務めた後、日本新聞社記者となり日本の統治下であった朝鮮半島に渡り元山時事新報の記者、元山民団の団長を務める。1915年(大正4)第12回衆議院議員総選挙で中正会から立候補して初当選をする。以来第21回衆議院議員総選挙まで連続10回当選(第14回衆議院議員総選挙は落選したが繰り上げ当選)。中正会→憲政会→立憲民政党に所属し、陸軍参与官、逓信参与官、司法政務次官、立憲民政党総務・政調会長を歴任した。

尾崎、浜田国松と並ぶ、三重県の大物政治家として、門閥政治、昭和の軍国主義に真っ向から立ち向かい、明治憲法下の議会政治を守ろうとした。尾崎と共に憲政擁護運動、大正デモクラシーによる普通選挙の実現に尽力。1941年(昭和16)1月25日の衆議院予算委員会では、伊藤博文の憲法義解と明治天皇が在廷の臣僚と議員に賜うた勅語を援用して、★大政翼賛会は法律上の根拠を欠き立憲政治に反すること、翼賛会の機構が国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)と共産ロシアの混血児的出現であることを指摘して新体制運動を進める近衛文麿首相を批判し、大政翼賛会の予算削減を唱え、翼賛議員同盟(1941年9月2日結成の政府与党)に対抗して鳩山一郎らと同交会を結成し、翼賛選挙に際しては非推薦で当選する。戦後、不本意ながらもGHQにより公職追放の対象者とされ、子の秀二が後継者となった。1949年(昭和24年)2月3日に、70歳にて没。

★郷里の伝統文化の顕彰にも尽力し、伊賀上野城を私財を投じて再建した。1942年(昭和17年)には松尾芭蕉の生誕300年を記念し、同じく★私財を投じて俳聖殿を建立した。

 

・・・このような偉人たちの尽力で、伝統文化・芸術は守り育てられてきた。ありがたいことです。

 

《NEWS》2020.10.13毎日新聞より

2年ぶりの芭蕉祭コロナで規模縮小、170人参加/科大臣賞に「伊予俳人・栗田樗堂全集」伊賀/三重

松尾芭蕉の命日にあたる10月12日、出身地の伊賀市の俳聖殿(上野丸之内)で「第74回芭蕉祭」があった。2019年の第73回芭蕉祭は台風の接近で中止され、2年ぶりの開催だったが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で規模を縮小した。19年は該当作がなかった俳文学(連歌、俳諧、俳句など)の優れた研究書に贈る文部科学大臣賞には20年度、「伊予俳人 栗田樗堂(ちょどう)全集」が選ばれ、芭蕉祭で編著者に同賞が授与された。芭蕉祭は例年、音楽演奏や合唱があり、約500人が参加する。20年は招待を減らし、生演奏を取りやめてCDで音楽を流し、参加者は170人だった。

 

《伊賀上野城》

518-0873三重県伊賀市上野丸之内106/0595-21-3148

http://igaueno-castle.jp/

藤堂高虎により築城され、現在は当時の内堀と石垣、昭和10年に建てられた天守閣が残っています。三層からなる城内には武具・甲冑や藤堂家の遺品、横山大観をはじめ名士の色紙46点の天井絵があります。外観の白い三層の美しい城郭から「白鳳城」とも呼ばれています。★高さ約30メートルと日本有数の高さを誇る内堀の石垣も必見で、映画のロケ地としても使用されてきました。また、伊賀市の★郷土資料を展示。現在の三層の天守は、1935年(昭和10年)に★川崎克氏により建てられたものですが、木造の建物内は戦国時代の雰囲気そのまま残されています。伊賀文化産業城とも呼ばれ、市の指定文化財となっています。