《参考》2016.6.27【正木利和のスポカル】産経新聞より
クロセイの描場/世界的イラストレーター“未来に恩返し”で「しゃべり場」開いた
大阪・ミナミのアメリカ村に「ピース・オン・アース」という壁画が描かれた年に、僕は大阪で社会人になった。以来、30年以上、大阪勤務が続いている。だから、あの鳥のような奇妙な人型を見ると、「よく頑張ってるよな、お疲れさん」と声をかけたくなる。いわば、彼は同期のような存在なのだ。あの絵を描いたときのイラストレーター、黒田征太郎(77)は、エネルギーに満ちてギラギラとしていたような記憶がある。まだ、大阪に活気があった懐かしい時代…。先日、そのクロセイさんに初めて会った。ビルの地下。ふたりの人物が、ちびたクレヨンを手にテーブルの上の紙にイラストを描いていた。「クロダです」と、丸いメガネをかけた年配の男性の方が言った。少し驚いた。当時の精悍な容貌からは想像できないほど穏やかな人物が、立ち上がって会釈した。
大阪市中央区西心斎橋のBIGSTEPというビルに4月、彼の「KAKIBA/描場」というギャラリーがオープンした。で、そこを訪ねたのだ。クロセイさんといえばイラスト。ところが、そこの展示で目をひくのは、★アクリル樹脂でいろんなものをかためてつくった立体作品だった。
「気に入った額縁がなくてね。いっそ、額縁のなかに絵をいれてしまえと。東大阪市の町工場でアクリル樹脂のなかに絵だけでなく旋盤のゴミやらなんやらも入れて固めてたら、工員さんと気があったということもあってね、2トン半にもなったんです。ほんとは3つだけ作るつもりだったのに、しまったなあ、売らないと製作費を払えない…。そしたら、このビルのオーナーがここでギャラリーをやったらどうですか、と」
少し安心した。クロセイさんのイメージの片鱗がこの言葉のなかにうかがえたからだ。その人生は、梁石日の「海に沈む太陽」という小説の主人公になったほど破天荒なのである。大阪★道頓堀に生まれ、西宮で空襲に遭い、滋賀県の農村に疎開、そこで10年ほど過した。「最後の国民学校生です」16歳で家を出て貨物船に乗り込んだり、釜ヶ崎で働いていたこともある。「早くから屋台で酒飲んでました。とにかく印刷物が好きで、印刷にかかわる仕事をしたい、と。それで考えて考えて、グラフィックデザイナーの早川良雄先生のところに押しかけた。丁稚、小僧として入れていただいたんです」「アメリカ文化へのあこがれもありました。本当にアメリカ人になりたいと思ったんです。占領政策の影響でしょうね。それでアメリカ人のやっているデザインやイラストにひかれていったんですね」ニューヨークに渡り、帰国後は長友啓典とデザイン事務所を設立、ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ賞を受賞して一躍、脚光を浴びることになった。「僕、若いとき、ちやほやされて、テレビに出ずっぱりで、長者番付に入ってたこともあるんです。そのお金はみなオートバイやスポーツカーに化けた。銀座のクラブやらね(笑)」ギラギラして見えたのは、その少しあとのことだ。「でも、有名人であることが照れくさくなったんです」
奔馬のような生き方をしてきたクロセイさんが、この人の前では「いつも緊張しっぱなし」という人物がいた。作家の野坂昭如(1930~2015)さんだ。彼が亡くなったとき、クロセイさんに悼む言葉をうかがったときのことは以前、当コラムで紹介した。「地球に生きる人類は、これからほんとうに大丈夫なのかと思う。食い物ひとつとっても米がどこでどうやってできるのか知らない人が増えている。無料(ただ)といわれた水を買う時代が来たんやから、空気も買う時代がくるやろ、と思ってたら、カネだして空気清浄機を買わないといけなくなった。うまく使えば便利なコンピューターもひとかわむけば集金装置…」「これ、みんな信頼していた野坂昭如さんの受け売り。野坂さんにすりこまれたことです。でも、尊敬できる師がいて本当によかった。もちろんいまも尊敬してます」「KAKIBA/描場」は、未来ある若い人たちとそうしたことを自由に語りあえる場にしたい、という思いも込められている。「しゃべり場みたいな…(笑)。僕は夕焼けを見ると泣きそうになる。大きな石を見るとかなわないな、と思う。それは自然へのおそれがあるから。でも、自然は大切といいながら、『アクリルの物体、売ってるやないか』といわれたら自己矛盾も感じる(笑)」
もう一度、手元を見ると、クレヨンで描いていたのは「クマ」のイラストだった。地震で苦しむ熊本の人のため、何かできることはないか、と絵はがきを描いているのだという。「絵で何かできること、一杯あんのちゃうかな。僕自身、絵を描くことで救われた。少年のころ、どう生きればわからないときに絵と出合って…。★精神安定剤に近いなあ。言葉でいうとオーバーかもしれないけど、絵は神様やから、そのお返しをしたい。それもあって、被災地の仮設住宅に勝手に描いたりもしてる」いまは北九州市の門司に住んでいるが、月に10日ほどはここで仕事をしながら、若者たちとの語らいを楽しむつもりだ。
《大阪府立江之子島文化芸術創造センター/enoco》
550-0006大阪市西区江之子島2丁目1番34号/06-6441-8050
enocoは2012年にオープンした新しい施設ですが、建物は古い歴史をもつ近代建築です。1938(昭和13)年に建てられたものを、コンバージョン(用途変換)しました。そしてenocoのある江之子島というエリアも、大阪の近代の歴史にとってとても重要な場所です。「江之子島」という町名の通り、かつてこの地は文字通りの島でした。水都大阪といわれるように、かつて大阪の中心部、特に西区には、何本もの堀川が流れていました。江之子島は木津川と百間堀川とに挟まれた、中之島を小さくしたような中洲だったのです。木津川は現在もそのままですが、戦後になって東側に流れていた百間堀川が埋め立てられ、島でなくなりました。1874(明治7)年、初の本格的な大阪府庁舎がこの江之子島に建てられました。enocoのすぐ北側です。西洋の古典様式に倣った重厚な建築は、「江之子島政府」と呼ばれて名所となりました。大阪市庁舎も、最初は江之子島に設けられました。この地は、かつて大阪の行政の中心地だったのです。そして木津川の対岸には、外国人の暮らす川口居留地がありました。洋館が建ち並ぶモダンな街は、新しい文化の発信地となりました。1926(大正15)年、大手前に新しい大阪府庁舎が完成して行政機能は移転し、空き家となった江之子島の建築には、大阪府工業奨励館が設けられました。最新の工作機械や実験機器が揃えられ、大阪の中小企業の工業の近代化に貢献しました。enocoの建物は、この工業奨励館の附属棟として1938(昭和13)年に建てられた工業会館です。残念ながら、元の府庁舎は戦争の空襲で焼失してしまいました。残ったこの増築棟は、大阪における数少ない戦前期のモダニズム建築として、貴重な存在です。
旧称/大阪府工業奨励館附属工業会館
建設年/1938年(昭和13年)
構造・規模/鉄筋コンクリート造4階建、地下1階
設計/大阪府営繕課、施工/大林組、改修設計・施工/長谷工コーポレーション
・・・ぜひ、多くの方々にも観ていただきたい展覧会です。アートの原点を再確認?できました。