東院庭園 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・本来なら(奈良)「ならアート」平城京で紹介すべきところですが、「庭園公園」という新テーマを設定しましたので、その第1番として登場してもらうことにしました。

 

《東院庭園》

https://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/page/toin.html

1967年、平城宮東張出し部の南東隅に大きな庭園の遺跡が発見されました。この場所は『続日本紀』にみえる「東院」にあたることから、発見された庭園は「東院庭園」となづけられました。それまで奈良時代の庭園については古い文献からそのようすをうかがうのみでしたが、この発見を契機に発掘調査を継続した結果、庭園部分とその周辺一帯の様相がほぼあきらかになりました。東院庭園は東西80m×南北100mの敷地の中央に複雑な形の汀線をもつ洲浜敷の池を設け、その周囲にはいくつもの建物を配していたことが確認されたのです。平城宮は他の日本古代都城の宮殿地区には例のない東の張出し部を持ちます。この張出し部の南半は、奈良時代をつうじて「東宮」とよばれたようですが、孝謙・称徳天皇の時代にはとくに「東院」とよばれていました。

 

称徳天皇はこの地に「東院玉殿」を建て、宴会や儀式を催しました。最近の研究では、光仁天皇の「楊梅宮」はもとより、聖武天皇の「南苑(南樹苑)」もこの場所を中心として営まれていたとする説があります。いずれも発掘された「東院庭園」と深く関わる施設でしょう。東院庭園は東西60m、南北60mの南から見て逆L字形の池を中心に構成されています。池の西岸には中央建物に付属する露台が水面に張り出し、露台から東岸には橋をかけています。池の北端には築山石組、西南部には中島があって、それぞれ庭園景観の焦点となり、屈曲する出島の先端部には景石が配されています。池底から岸辺にかけてゆるやかな勾配で小石を敷きつめた洲浜が出入りのある汀線をかたちづくっており、奈良時代の優美な庭園の様子がしのばれます。自然の風景を主題とした平安時代以降における庭園の原形ともいえる重要な遺跡なのです。東院庭園の池は前期と後期の2時期に分けることが出来ます。前期の池は汀沿いの池底に大きな玉石を帯状に敷きつめていましたが、後期の池では池底から岸にかけて前面に小礫を敷き詰めた浅い池となっていました。池の形も前期の単純な逆L字形から、後期にはいくつもの入り江や出島をもつものに作り直されており、池の北岸には築山石組が新たにつくられました。奈良時代中頃の池のつくり替えにともない、建物も何度か建て替えられました。

 

東院庭園では池の北東方や中央に主要な建物を配しています。左に見える建物が中央建物、右奥に建つ建物が北東建物です。このほか、庭の南東隅でも特殊な建物跡がみつかっています。ごく最近の発掘調査で、逆L字形の特殊な平面配置をもち、頑丈な地盤固めをしていたことがあきらかになりました。正八角形(経約32cm)の柱も4本出土しています。しかし、建物の上部構造や意匠、庭園内で果たした役割などについては不明なところが多く、庭園空間全体との関係をふまえ、今後詳しく検討していく必要があります。平城宮跡全体の整備は『特別史跡平城宮跡保存整備基本構想』(1978年、文化庁)に基づいて行われています。平城宮跡に設定されている4ヶ所の立体復原地区の一つが東院庭園であり、平城宮内で営まれた宴遊空間を再現することをめざしています。復原に際しての基本的な方針は以下の通りです。

1 奈良時代後半の庭園の姿及び建物を復原整備する。

2 遺構は保護のために土で覆い、その上に池、建物、橋、塀などを原寸大で復原するが、石組や景石の一部は、実物を露出展示する。

3 出土した植物遺体などの発掘成果や文献資料をもとに、植裁樹種を選定し、古代庭園にふさわしい景観を復原する。

 

庭園地形の整備では地下に残っている遺構をきずつけないように、土盛による保護を原則としておこなっています。遺構の真上に復原建物や築地塀を建設する場合、40cmほど盛土して整備地盤面としました。一方池の部分では、地形そのものが遺跡であることから、景石や洲浜石敷の遺構そのものを見ていただきたいのですが、洲浜の遺構は大変壊れやすく露出に耐えないため、砂と不織布で覆って保護した上に遺構と類似した小石(経5~10cm程度)を厚さ10cm程度に敷き詰め、奈良時代の洲浜を再現しました。盛土の厚さによって生じる地盤高の差については、庭園の各所でなめらかに繋いで処理しています。露出している景石の表面は合成樹脂で強化し、割れていたものは接着して修復しました。景石が失われたと考えられる位置には、裏に補充年度を墨書きした石を新たに据えて、奈良時代のものと区別するようにしました。池を持つ庭園に於いては水の扱いが重要となります。奈良時代後期の東院庭園では庭園北方の西から東へ流れる石組水路とこれを受ける石組護岸の小池が給水施設の中心で、このほか池北東部のわき水部分には曲げ物を据えて水源を確保していました。また、池を乾すために水を抜く際は、南面大垣の下をくぐらせた暗渠を使いました。整備では石組み水路と小池を復原して池の給水を行うとともに、水の淀みをなくすために池の西部を中心に池底の9ヶ所に給水管を増設してあります。池の水量は約350立方メートル、給水には井戸水を使い、「宇奈多理の杜」の北西方に設けた管理施設で最高1日3回の割合で循環浄化し、正常な水質を保つ工夫をしています。

 

植裁は庭園の景観を形づくる重要な要素です。発掘調査によって池の堆積土から採取した植物遺体(枝葉、種子、花粉など)を分析した結果、奈良時代後半の東院庭園には主にアカマツ、ヒノキ、ウメ、モモ、センダン、アラカシ、ヤナギ、サクラ、ツバキ、ツツジなどの樹木が植えられていたと推定しています。この成果を中心に、『万葉集』や『懐風藻』などにみられる庭園植裁の記録も参考にして樹種を選びました。植裁の位置は、樹木の植え穴、もしくは抜き取り穴の可能性がある浅い窪みや、大きな枝がまとまって出土した位置などを参考にして復原しました。また樹の大きさや形は、平安時代の『年中行事絵巻』などの絵画資料を参照し、全体の景観に配慮して決めました。

発掘調査で見つかった建物跡の上屋構造はどのようにして推定復原されるのでしょうか。疑問に思う方も多いかもしれません。 まず建物跡によって平面が確定し、雨落溝があれば軒の出も分かります。軒の出がわかれば、軒先の組物もおよそ想像できます。このほか井戸の枠板や溝の堰板に転用された建築部材、柱穴にのこる柱根、10分の1縮尺の建築模型部材などの出土資料が、復原に当たっての第一の情報源となります。くわえて、奈良県内には飛鳥・奈良時代の古建築が30棟ほど現存しているので、それらの構造・意匠・部材寸法などを参照したり、文献史料や平安時代の絵図をも視野に入れながら、建物の復原を進めてゆきます。

桁行5間×梁間2間の身舎(建物の中心部分)の四周に縁をまわした東西棟建物です。大部分の柱は礎石建ですが、四隅の柱のみ深い柱穴をともなう堀立柱としています。西側3間の部分だけ、地下に特別な地盤固めをしているので、そこを閉鎖的な「室」、東側2間を池と連続する開放的な「堂」と考えました。また、この間取りは、法隆寺伝法堂前身建物とよく似ていることから、原則として部材寸法や構造形式は、これにしたがって復原しました。さらに、南東の柱であったことから、平等院鳳凰堂など、面取り部材を用いた古代の現存建物を参照して、部材のほとんどに面取を施しました。

庭園の北東にある桁行3間×梁間2間の礎石建の東西棟建物です。円柱を受ける平らな彫り出し(円柱座)をもつ礎石が出土しており、これから柱の直径が41.4cmと推定できました。池の北に建つ「亭」のような施設と考え、開放的な空間構成の法隆寺食堂を復原の見本とし、東西の妻面のみが壁で南北は吹き放しとして復原しました。

桁行7間×梁間2間の身舎に西庇のつく堀立柱の南北棟建物です。東院南門と玉殿をつなぐ道路の脇に設けられた「控の間」のような建物で、本来は庭園とは関係ない施設です。しかし復原事業では、西側の駐車場から庭園内に導入するためのエントランスおよび管理施設として位置づけ、整備しました。これらの現代的機能もみたすよう、構造体を古代建築として復原しつつ、内部では鉄骨やガラスなどの新建材を多用し、復原部分と現代的機能空間が一見して区別できるように工夫しました。このように現代的機能を兼ね備えた復原建物の建設は、平城宮跡では初めての試みです。