《平城宮跡資料館》
630-8577奈良市二条町2-9-1/0742-30-6753奈良文化財研究所
https://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/index.html
2013年4月24日(水)から奈良文化財研究所 平城宮跡資料館の展示をインターネット上のGoogleストリートビューで見ることができるようになりました。なお、ストリートビュー撮影時と展示内容は変更されている可能性があります。
【早川和子】1953年、宮崎県に生まれる。★考古イラストレーター。アニメスタジオ・マッドハウスで「元祖天才バカボン」「ガンバの冒険」などの動画を担当。その後、発掘事務所のアルバイトを経て考古復元イラストを描くようになる。『日本歴史館』『よみがえる日本の古代』(ともに小学館)、『古代史復元』(講談社)、『吉野ヶ里』(草思社)、『縄文のムラ』(岩崎書店)など多数の歴史書でイラストを描いている。
★2020平城宮跡資料館秋期特別展「地下の正倉院展-重要文化財 長屋王家木簡-」
平城宮跡資料館では、秋期特別展として恒例の「地下の正倉院展」を開催します。本年3月、文化審議会の答申により、長屋王家木簡1669点が国の重要文化財に指定されることとなりました。そこで今回はこれを記念し、新指定の木簡をご覧いただく展示を企画しました。長屋王は奈良時代前半に政権の中枢を担った貴族で、天武天皇の孫にあたる人物です。木簡には、長屋王の家族や彼らに仕えた多くの人々が現れます。邸宅内の人々に米飯を支給した伝票木簡からは、具体的な家政運営の様子が浮かび上がり、食料などを進上する際の木簡からは、長屋王家が大和国やその周辺をはじめ、各地に多くの所領を持っていた様子がうかがえます。今回の展示を通じて、奈良時代における上級貴族の豊かな暮らしぶりに思いをめぐらせていただければ幸いです。
《参考》今日は何の日「昭和63年8月26日」/WEB歴史街道より
★奈良そごう建設現場で長屋王邸宅跡が発見
昭和63年(1988)8月26日、奈良市の二条大路南一丁目の奈良そごう建設現場で、長屋王邸宅跡が発見されました。自害を余儀なくされた長屋王の、悲劇の舞台です。発掘調査では、邸宅跡から4万点にものぼる夥しい木簡(長屋王家木簡)が発見され、当時の貴族の生活を知る貴重な史料となっています。長屋王は天武天皇13年(684、異説あり)、高市皇子の子に生まれました。高市皇子は天武天皇の第一皇子で、壬申の乱の立役者の一人です。また母親は天智天皇の皇女・御名部(みなべの)皇女でした。長屋王は大宝4年(704)に正四位上に初叙されます。異例の優遇ですが、父親の高市皇子が皇太子であった可能性があること、また正室の吉備内親王が文武天皇の姪で、元明天皇の皇女であったことが後押ししたのでしょう。霊亀元年(715)、元明天皇は、皇女で長屋王の正室でもある吉備内親王が生んだ子女はすべて皇孫として扱うという勅を出します。つまり長屋王の子供たちはすべて皇孫となったわけで、長屋王家木簡に「長屋親王」と記載があるのも、こうしたことから長屋王が親王として扱われていたことが窺えます。翌霊亀2年(716)、長屋王は正三位に叙せられました。一方、長屋王は右大臣・藤原不比等の娘も室に迎えており、当時の政界で長屋王は不比等の勢力に次ぐような位置で、両者の関係も悪くはなかったようです。やがて養老2年(718)、長屋王が大納言に任ぜられて右大臣の不比等の地位に迫り、さらに2年後の養老4年(720)、不比等が没すると、翌養老5年(721)には長屋王が右大臣となって、実質的な政界の主導者となります。 同年には、元明上皇が長屋王と、藤原不比等の息子の房前(ふささき)を招いて後事を託し、ほどなく薨去。時の元正天皇は長屋王の正室・吉備内親王の姉であり、妹婿の長屋王を頼りとしました。こうした長屋王の台頭が、政治の実権を握ろうとしていた藤原氏にとって、面白かろうはずがありません。しかし不比等の4人の息子たち(武智麻呂、房前、宇合〈うまかい〉、麻呂)は年齢的にまだ若く、その地位は長屋王に遠く及びませんでした。神亀元年(724)、聖武天皇の即位と同時に、長屋王は正二位左大臣に進みます。同年、聖武天皇は生母の藤原宮子(不比等の長女)に皇太夫人の称号を贈ろうとしますが、長屋王は令に違反するとし、推進派の藤原四兄弟と対立。結局、天皇は勅を取り下げ、長屋王と、勢力拡張を望む四兄弟の対立が鮮明となりました。神亀5年(728)、中衛府が新設されて藤原宇合が大将となり、藤原氏が兵権を掌握します。長屋王に対抗するための一手であったでしょう。同年、基(もといの)皇太子が薨去。これらが長屋王の運命を決めることになります。翌神亀6年(729)、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやところのあずまびと)らが、長屋王の謀叛を密告。「私(ひそ)かに左道を学び、国家(みかど)を傾けんと欲す」というものでした。これを受けて式部卿・藤原宇合が六衛府(五衛府と中衛府)の兵を率いて、長屋王の邸宅を囲みます。そして舎人親王、藤原武智麻呂らが屋敷内に派遣され、長屋王を訊問しました。その容疑は、おそらく基皇太子の呪殺であったであろうとされます。訊問は長屋王を犯人に仕立てるためのもので、長屋王の抗弁は一切聞き入れられず、自害を促されます。長屋王はすべて藤原氏の陰謀であると承知した上で、他人の手にかかって殺されるぐらいならばと、妻子に毒を飲ませ、自らも服毒自殺しました。享年46。長屋王が没すると、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の室である光明子を皇后に立て、藤原四兄弟が政権を牛耳ることになりました。ところが天平9年(737)、四兄弟は天然痘で全員が相次いで他界してしまいます。長屋王の祟りではないかと噂されたのも、無理からぬところでした。なお『続日本紀』天平10年(738)の記事には、密告は「誣告(ぶこく)」であったとあります。事件から10年も経たぬうちに長屋王の無罪は一般に流布していたことがわかります。