・・・自宅横駐車場のオーナーはお花が大好きで、いつもキレイに整備されており、今は真っ白な彼岸花が美しく咲き誇っています。
《参考》2020.9.23静岡新聞より
暑さ寒さも彼岸までと言うように、日中もだいぶしのぎやすくなった。ところが、彼岸花の見頃は、各地で遅いと言われた去年よりさらに遅れているようだ。★酷暑と残暑の影響だろうか。彼岸花というと、新美南吉の「ごんぎつね」が頭に浮かぶ。兵十の母親の葬式である。〈墓地には、ひがん花が、赤い布のようにさきつづいていました〉。ごんは白い着物の葬列を六地蔵の陰から見やる。〈人びとが通ったあとは、ひがん花がふみおられていました〉国語の教科書で読んだ小学生のころは、ごんが栗を届ける場面や、撃たれてしまう結末が印象的だった。それが読み返す度に彼岸花の情景が鮮明になり、暗示があると思うようになった。「死人花」など不吉な呼称もある彼岸花だが、一般的な別名は仏典に由来する曼珠沙華[まんじゅしゃげ]。〈母なき川曼珠沙華なと流れ来よ〉は藤枝市岡部町出身の村越化石(1922~2014)の代表作の一つ。群馬県の療養所に20歳前に入所した化石は44歳の時、療養所同士の交流事業で県内を訪れた。その時、実家には寄れなかったものの、実家前の川の土手に咲く曼珠沙華を見て詠んだ。長男の初句集発刊を「誇りです」と応援した母に贈られた絵画のような鎮魂歌である。鮮やかな彼岸花が登場する童話と俳句の情景に、この花は先祖や故人がいる彼岸とこちら側を結ぶのではないかと思う。「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」秋分の日、近所を歩いたが、例年の群生は見られなかった。温暖化が進むと彼岸に彼岸花が咲かなくなるのだろうか。
《参考》「ごんぎつね」/著:新美南吉/青空文庫より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/628_14895.html
南吉の代表作で、彼が18歳の時に執筆した。初出は『赤い鳥』1932年1月号。作者の死の直後、1943年9月30日に刊行された童話集『花のき村と盗人たち』(帝国教育会出版部)に収録された。
南吉の出身地である愛知県知多郡半田町(現在の愛知県半田市)岩滑(やなべ)地区の矢勝川や、隣の阿久比町にある権現山を舞台に書かれたといわれている。筆者が村の老人から聞いた話という体裁をとっており、「城」や「お殿様」、「お歯黒」という言葉が出てくることから、江戸時代から明治ごろが舞台となっている。
★直筆原稿
http://www.yanabe-e.ed.jp/01nankitiMap/nankiti_siryo/genbun_gon.htm
http://www.yanabe-e.ed.jp/01nankitiMap/nankiti_siryo/gon_zenbun.htm
《ヒガンバナ(彼岸花、石蒜、学名 : Lycoris radiata)》Wikiより
ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。別名は曼珠沙華(マンジュシャゲ)、学名からリコリス・ラジアータとも呼ばれる。中国原産で、日本全国の道端や田んぼのあぜなどに群生し、秋の彼岸のころに、花茎の先に強く反り返った鮮やかな赤い花だけが咲き、夏の終わりに葉が伸びて秋に枯れるという、多年草としては珍しい性質を持っている。地下の鱗茎(球根)に強い毒性がある有毒植物であるが、かつて救荒作物として鱗茎のデンプンを毒抜きして食べられていた。食用は一般的には危険であるが、毒を抜いて非常食とすることもあるので★悲願の花という解釈もある。
《参考》「いちし」はギシギシ、イタドリ、イチゴ、エゴノキなどの説もありますが、彼岸花説が有力です。しかし、何の花かは確定していません。
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2018/09/20180928.html
『万葉集』巻11-2480/柿本人麻呂
◇原文:路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀■(女偏に麗) [或本歌曰 灼然 人知尓家里 継而之念者]
◇よみ:道の辺(へ)の、いちしの花の、いちしろく、人(ひと)皆(みな)知りぬ、我(あ)が恋妻(こひづま)は[或(あ)る本の歌に曰(いわ)く いちしろく、人知りにけり、継(つ)ぎてし思へば]
◇意味:道端のいちしの花が目立つように、私の恋しい妻のことをみんなに知られてしまいました。
日本では各地方のみで通じた異名が派生し、別名・地方名・方言は数百から1000種以上あるといわれている。葬式花(そうしきばな)、墓花(はかばな、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、火事花(かじばな)、蛇花(へびのはな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨て子花(すてごばな)、灯籠花(とうろうばな)、天蓋花などがその例で、不吉な別名が多くある。加えて、開花時に葉がなく、花と葉を同時に見られないことから、★葉見ず花見ず(はみずはなみず)の別称もある。韓国では、サンチョ(相思華)とよばれ、「花は葉を思い、葉は花を思う」という意味がある。
・・・今回の奈良散策の目的は、「彼岸花」探しでもありました。
《参考》
●史跡大安寺旧境内範囲確認発掘調査事業に係る発掘調査の成果発表について(平成30年11月2日発表)
https://www.city.nara.lg.jp/site/press-release/7085.html
●史跡大安寺旧境内講堂跡の調査
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/35999
●史跡大安寺旧境内「杉山古墳・杉山瓦窯跡群」
https://www.city.nara.lg.jp/site/bunkazai/3269.html
https://www.city.nara.lg.jp/site/bunkazai/5264.html
《大安寺北面中房跡》(大安寺村役場跡)奈良市大安寺1-11
弘法大師・空海や天台宗を開いた最澄もここで修行されています。凝灰岩で基壇と礎石の復元がされています。天平19年(749)頃の大安寺の記録によると、当時887人もの僧がいたようです。その僧たちが起居した僧房(僧坊)跡です。大安寺の僧房は金堂・講堂を囲うように東・西・北の三面に二重に建てられていました(内側の僧房は太房、外側の僧房は中房と呼ばれます)。大安寺は平安時代に幾度か火災にあい、再建されたことが記録に残っています。北面中房は平安時代末期以降、再建されることはなかったようです。大安寺村役場跡の石碑が基壇脇に建てられています。添上郡大安寺村は昭和26年(1951)に奈良市に編入されました。
・・・さて、「大安寺」にお参りです。




