渦巻生活(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「渦文」について、興味深いブログを発見しましたので紹介します。

 

《うつわ歳時記「文様あれこれ」》石川県加賀市・橋本薫より

http://www7b.biglobe.ne.jp/~utuwasaijiki/05-essay-k/essk-01/esk-004.html

先日、地面に★石蹴り遊びの★螺旋が描いてあるのを見た。まだこんな遊びをする子がいるのかと愕いたがひょっとするとおばぁちゃんが孫ににやってみせたのかもしれない。渦巻き型に石を蹴ってゆくのは女の子の遊びだった。石蹴り遊びには長四角を分割した「キーバタン」というのもあって、その方がポピュラーだったような記憶がある。渦巻きの間を中心へ向ってケンケンで小石を蹴って行くのは、子どもには悠長過ぎたのかも知れない。それでも途中に足を下ろしてもいい印や踏んではいけない場所などがあって、子どもながらになんとなく人生的な遊びだと感じたものである。或るとき十九世紀の「天路暦程」の挿絵(版画)に、おなじ右回りの渦巻きの道をみて、微笑ましかった。挿絵には人生の泥沼や虚栄の市場を抜ける巡歴の行程が事細かに描きこまれていた。中心は死の河に取り巻かれた天上の都市で、それが上がりというわけ。石蹴り遊びでは、一人が小石を中心まで蹴り終えると次の子が今度は中心から外へケンケンで蹴って戻るのだったと思う。線の上に小石が乗ったり線を踏んでしまったりしたら負けだった。★昔の神事が子ども遊びに残っていることがあるという。渦巻き型の石蹴り遊びもそういう古い遊びの一つだったのかもしれない。

渦巻き文様の歴史は古い。世界中のどこでもBC3000年ごろの人たちは、石や粘土に渦巻きを描くのに★没頭していたかのように見える。蚊取り線香を眺めて目を回すように渦巻き文様のはじまりを考えると眩暈がしてくる。<かんがえる>とは、★<かむかえる>つまり向き合うことだそうだ、うう目が回る。ついでだが<分かる>はつまり<分ける>ので分析的かつ静的な行為であるらしい。

http://hikarinohon.com/story/utsuwa/03/utsuwa-03.html

四大文明はそれぞれの★好みの渦巻き文様を持っている。メソポタミアの粘土板に表現された★腸状迷宮の呪術的迫力は圧倒的なので、渦文様の発祥はこの腸ではないかと考える向きもあるらしい。が、私はそれは考え方が逆ではないかと思う。むしろ渦のイメージが先にあって、それが生き物(人間も含む)の内部にも見出されることが古代の人々には印象が強く、そこに神秘的照応を感じたのだろう。大宇宙(マクロコスモス)とミクロコスモスとのあいだに照応を感じること、中沢新一の言葉を借りれば★「対照性」をみだすのは古代の人の得意技だった。メソポタミアの粘土の腸はおそらくそのひび割れ方などで★腸占いにつかわれたのだろう。腸占いは中国にも、また他の文化にも見られる。もちろんほんものの腸を始めは使っていたのだろう。粘土に写すことでワンランク”文化的”になったといえるだろうか。それはひっくりかえせば自然の中に人体を見ることでもある。シュール・レアリストのマックス・エルンストの「フランスの庭」に描かれた、風景と女性の肢体の渾然とした世界など、現代の私達の感覚にも訴えてくるなにかがある。しかし、また、専制君主時代のヨーロッパのように、「国家とは王の肉体そのものだ」というような、人迷惑な思想にもつながったりするけれども。それなら、渦、螺旋のイメージとはなんだろうか。水の渦、炎の渦、全く性質の異なるものに同じように出現する渦巻き・螺旋の形象は古代人ならずとも神秘的だ。夏の浜辺で拾った巻貝の美しい螺旋構造に、魅せられた人は多いだろう。星雲からDNAまで、★神の暗号のように螺旋はひそんでいる。

 

 

ヒンドゥー教の開闢神話にも壮大な渦がある。悪魔と神々が宇宙蛇をひっぱりあう乳海攪拌の物語である。その渦のなかから不老不死の霊薬が生じる。インドの神々は渦の象徴であふれている。★卍はヴィシュヌ神の旋毛の徴だったが、のちに仏陀の胸や手足の裏にも移った。ヨガでも脊椎にそって存在するの霊的な力のスポット(チャクラ)を力の循環する渦ととらえている。チャクラとはサンスクリット語の車輪の意味だそうだ。真上から見た蓮の花の形にも似ているので、しばしば両者のイメージは混ざり合う。渦または螺旋は対立する二つの力の相関関係をあらわしている。どちらが始まりとも終わりともつかず、無限に回転を続ける対立する力。渦巻き文様は、神々と悪魔、陰と陽、そして死と再生の、★力動的統一の象徴となった。

古代文明の渦巻き文様をもう少し見てみよう。エジプトの第十二王朝のファラオの二重王冠の前頭部には、蝶々の口吻のような渦巻きがレリーフになっているのが面白い。仏像の眉間の白毫も普段は白い毛が螺旋状に巻き込まれていて、時にそれを光のように伸ばすのだそうだが、このファラオの冠の図像が遥かにヘレニズムを経て仏像の形に影響を与えたのではないかと想像すると楽しい。古代の人々がどんなに情熱を傾けてそれぞれの渦巻き文様をえがいてきたか、書き出せばきりもない。本当は、画像が載せられればいいのだが、自分で全ての写真を撮るのは不可能だし、良い写真や画像は自由にならないので、言葉ばっかりで申し訳ないが、もう少し古代世界の渦巻き文様について考えてみたい。対立する二つの力の代表といえば 陰と陽。「易経」に云う「一陰一陽これを道と謂う」であって、道教では竜が道の象徴である。水の精であると同時に空中を飛翔する龍。いかにも濛濛と雲が渦巻きそうである。中国の開闢神話の始原の兄妹は龍の尾を絡ませている。中国の開闢神話は私のパソコンでは出せない漢字があまりにも多いので、残念ながら詳しいことは省略せざるをえない。しかし、渦巻く雲の文様は中国の文様の特徴といえるくらい、悠久の時を越えて描き続けられた。そして龍は皇帝のシンボルとなり、皇后は鳳凰をシンボルとして、どちらの周りにも常に★雲気がたっぷりと渦を巻いて描き込まれている。

 

 

《参考》「石蹴り遊び (フィクションの楽しみ)」/著:フリオ・コルタサル/訳:土岐恒二/集英社1984

読者を共犯者に、旅の道連れに、仕立てあげること、★二通りの読み方をもつ開かれた書物。『ユリシーズ』の実験的技法を用いながら、パリ、そしてブエノスアイレスを舞台に現代人の苦悩を描いた、ラテンアメリカ文学屈指の野心作。1950年代末のパリ。ブエノスアイレス出身で作家志望のオリベイラは、酒にジャズに酔い、いつ果てるとも知れない芸術談義に耽るボヘミアン。そんな彼の前に現れたウルグアイ出身の小児を抱えた娼婦ルシア(ラ・マーガ)。二人の愛の生活が始まる。ある日忽然と姿を消したルシアを探し求めパリの街をさまようオリベイラ。

 

・・・この作品も「目が回ってくる」ようです。

 

白川静の字通によれば「神」という字の元の形「申」は、二つの繋がった蕨手状の渦巻きをあらわしていた。雷ももとは壘の下の土を消した恰好で、この田の形は古くは渦の形象だったという。雷雲は神霊の渦なのだろう。★ラーメン丼のふちを飾る雷紋(四角くデザインされた渦巻きの繰り返し文様)は、厳しい歴史を秘めているのだ。三つ巴文様は雷神様の太鼓の文様である。日本でも、そのせいか、神道家の家紋に巴紋は多い。ギリシアのキクラデスの壺(BC2800頃)の胴に掘り込まれた蕨手風の螺旋はすでに洗練された端整な姿だ。そして怪獣ミノタウロスを封じたクレタの迷宮は螺旋形だったという。四大文明からは外れるけれど、アイルランドのニューグレンジの巨石に刻まれた神秘的な渦巻き文様はあまりにも有名だ。そして丁度そのころこの国でもよく似た渦巻き文様が作られていた。★縄文土器。湧き上がるように渦巻き指紋の様に流れる造形は、岡本太郎もしびれさせた生命力にあふれている。どちらに国でも、渦の持つ力に憑かれたかのような、ダイナミックな文様の氾濫は見るものを圧倒せずにはおかない。ヨーロッパの西の端と極東と、遠く離れた土地にどうしてこんなにも多くの渦巻き文様が描かれたのか。そして、アイルランドのケルトの渦巻きはキリスト教を受け入れた後も生き残り、聖書写本に、墓標に、日常にも描き続けられたと言うのに、日本では、仏教美術の唐草の中に飲み込まれたかのように影が薄くなってしまうのは、なぜだったのだろう。紀元前三世紀ごろを中心に古代世界の渦巻き文様をざっと渉猟してきたが、この文様がほぼ全世界を覆っていることに改めて驚かされる。★唐草文様はオリエントかギリシャに始まってインド、中国と伝播したとかんがえられるが、渦巻きはあたかも世界中に同時に発生したかのようだ。その後、渦巻文様は具体的な雲とか花とかを巻き込みながら徐徐に自然化・写実化してゆく。渦の力そのものは衰退して行くかのような印象をうける。さて、さきほどから、私の貧しい言葉で、「一見対立しているかに見える二つの力の合一(渦1より)」などなどと書いてきたが、古代の人々はそんな分析的な言葉にとらわれてはいなかったろう。むしろ全一なるものの変容の範列(パラディグム)として渦巻・螺旋の形態をとらえていたろう。たとえば人体にそれを見だす時、頭のつむじ、指先の指紋、胚、腸、耳の形、と、それらは次から次へと呼び起こしの想像力を刺激する。同時にそれは神秘的な象徴的意識、世界の深さの感覚もともなう。あまりこういう言葉は使いたくないのだが、構造主義的な言辞を用いていえば、範列意識(パラディグム)と統合(サンタグム)を横断する特権的表象であるといえるだろう。螺旋の図像を眺めれば視線は自然に中心へと誘われまた戻って、とどまらない。見ているうちに目が回ってくる。文様がその目くるめく感覚そのものでもあるので、意味するものとされるものの恣意性という西欧的な象徴体系におさまりきれないのだ。しかし螺旋・渦に巻き込まれることはおそろしいとどうじに蠱惑的でもある。「螺旋歌」という詩集がある。(以下略)

 

・・・まさしく「目が回ってくる」ので(以下略)します。

 

 

 

◆企画展「渦文-時を超える文様-」(白河市)

2019.09.28(土)~2019.12.15(日)

福島県文化財センター白河館「まほろん」

961-0835 白河市白坂一里段86/0248-21-0700

https://www.fcp.or.jp/mahoron/

縄文土器の器面を飾る躍動する渦巻、弥生土器にみられる均整のとれた渦巻、横穴墓の装飾壁画に見られる赤い渦巻など、原始時代から繰り返し表現されてきた渦巻文様を持つ考古資料を展示します。様々な渦巻を描いた人々の思いを考えてみませんか。

 

・・・もとにもどって「けんぱ(石蹴り遊び)」について、

 

 

《あそびずかん》作:かこさとし

https://kakosatoshi.jp/

【かこさとし】1926年福井県武生市(現在越前市)に生まれる。東京大学工学部応用化学科卒業。工学博士。技術士(化学)。児童文化の研究者でもある。現在は、出版を中心に幅 広く活躍。作品は『からすのパンやさん』を代表する「かこさとしおはなしのほん」シリーズ、『うつくしい絵』、「だるまちゃん」シリーズ、『とこちゃんはどこ』、「かこさとしからだの本」シリーズ、『伝承遊び考』など600点余。2008年菊池寛賞受賞、 2009年日本化学会より特別功労賞を受賞。

https://www.ehonnavi.net/style/156/1/

https://books.bunshun.jp/articles/-/2964

いやぁ、幾らでも描きたいんですけどねぇ……、首筋が痛くなったり肩が凝ったりするので、それを戻す方に時間がかかって、半分くらいロスしちゃう。若いときよりも沢山時間をかけているんですけど、やっぱりなかなか捗らないですね。生きている証拠だから、まぁ仕方がないですね(笑)。

◆加古さんTシャツでPR、2021年福井で全国紙芝居まつり/2019.6.25福井新聞より

2021年に福井県越前市で開かれる「第17回全国紙芝居まつり」を盛り上げようと、越前市の紙芝居愛好グループが、同市出身の絵本作家で紙芝居も手がけた加古里子さんの人気キャラクター「だるまちゃん」「からすのパンやさん」が"競演"したTシャツを製作した。8月の16回山形大会で会員が着用、越前市をPRするとともに一般にも販売する。越前市の「かこさとしふるさと絵本館」で活動する愛好グループ「越前らくひょうしぎの会」が製作した。加古さんの人気キャラクター「だるまちゃん」の鼻に「からすのパンやさん」の4兄弟が止まっているデザイン。生地色は黒、グレー、ピンク、白など6色で、大きさはS、M、Lの3サイズ。1枚2500円(税込み)。異なるシリーズのキャラクターの競演は、版権などの都合で難しいが、同会が加古総合研究所(神奈川県)に相談したところ「紙芝居の振興に協力したい」と快諾。出版社の偕成社と福音館書店の協力も取り付け、1年がかりで製品化にこぎ着けた。全国紙芝居まつりは、2年に1回開かれ、紙芝居作家や愛好者らが全国から集う。第17回まつりは21年8月28、29日に越前市で開催予定で、★20年8月にはプレ大会も予定されている。第16回山形大会は8月31日から2日間、山形県上山市で開催、同会の会員がTシャツを着て参加し越前市の大会をアピールする。同会事務局の女性(63)は「越前市ゆかりの加古さん、★いわさきちひろさんの創作の原点は紙芝居。★越前和紙産地を抱える紙のまちでもあり、世界に誇れる紙芝居のまちへ、多くの人に足を運んでもらいたい」と話していた。購入の問い合わせは同会事務局=電話090(8960)2662。

★越前市で8月予定「全国紙芝居まつりプレ大会」中止決定/2020年5月27日

★かこさとし《ふるさと絵本館「石石」(らく)》

https://www.city.echizen.lg.jp/office/090/060/kakosatosi/ehonkan_home.html

 

・・・結論として、「渦」は「あそび(神楽)」であり「つながり(結び)」ではないかと思うわけです。現代人が取り戻すべき、重要な「文様(生活様式)」ではないでしょうか?