あじさい(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

 

・・・新型コロナウイルス感染拡大を防止するために、入山などにも配慮がされています。

 

 

《神廟拝殿(旧講堂)》

定慧和尚が父藤原鎌足公供養のため、679年(白鳳8年)に創建した★「妙楽寺」の講堂で、1668年(寛文8年)に再建され、伽藍配置は塔の正面に仏堂を造る特色をもち、内部壁面に羅漢と天女の像が描かれています。なお、毎年11月第二日曜日の「蹴鞠祭」は、「神廟拝殿」横の広場で、11:00~12:00に行われます。また、広場の西側に談山神社の末社、唐破風で美麗な国重文の「総社拝殿」が建ち、更にその西裏には天神地祗、八百万神を祭る「総社本殿」が建っています。

 

 

【齋部哲夫】(1943~)

https://researchmap.jp/read0033341

1943年大阪生まれ、桜井在住。日本を代表する彫刻家。作品は木彫を中心とした巨大オブジェが有名。そのテーマは「生命のダイナミズム」言葉に出来ない宇宙の壮大さ-パワフルな自然の営み-神の息吹-を木という素材に表現し続けています。2004年は談山神社境内で行われた舞踏家の麿赤兒さん、石彫の河合隆三さんとのコラボレーションが大評判でした。観賞された方も多いのではないでしょうか。40年にも及ぶ創作活動はまさにパワフル。これからの作品作りも期待されます。

 

 

《蹴鞠》

今から凡そ1400年前、中国から伝わったと言われ、中大兄皇子と藤原鎌足が飛鳥の法興寺(現・飛鳥寺)で蹴ったのが★最初とされ、以来歴代天皇始め宮中の高官・将軍・大名・室町江戸時代では庶民に至るまで広く行われたが、明治維新頃には―旦跡絶えた。明治38年、明治天皇の御下命により当「蹴鞠保存会」を創立して現在に至った。

蹴鞠は8名(又は6名)が1グループとなり、鞠を足で蹴って地に落さず、手を用いず独特の装束をつけて、鞠庭で蹴りつづけて楽しむものであって、★勝ち負けはない。又、時間の区切りに厳格な取りきめもない。―座(グループ)のリーダーがメンバーが楽しく時を過し、★ちょっと休みたくなった頃にやめる訳である。普通は10~15分で終る。始め・終り・途中の動作に作法と言うべきものが多くあり、★見ている人々の見苦しく感じられない作法が定められている。老若男女・上手下手、貢賎を問わず、互いにメンバーの中の相手に蹴りよい鞠を蹴渡して 共に楽しむのである。

 

 

・・・カエルちゃんにも出会い、意気揚々と登り始めたのですが、

 

《談山(かたらいやま》)山頂「御相談所」607m

かつて中臣鎌足と中大兄皇子が山頂で大化の改新の★密談を行ったのが山名のいわれという。

 

《御破裂山(ごはれつざん)、山頂》「藤原鎌足墓所」618m

「天下に事変あれば事前にこれを察知し鳴動する」と伝えられる山。鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に★墓を移しました。

 

 

・・・「大化の改新」に思いを馳せるどころか、自粛明けの足腰には、かなりキツイ登山でした。へろへろ

 

 

《参考》「阿武山古墳(あぶやまこふん)」

大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威にある古墳。国の史跡に指定されている。阿武山(標高281.1メートル)の山腹に位置する。昭和初期に地下から古代の貴人の埋葬遺体が発掘され、被葬者を藤原鎌足(中臣鎌足)に比定する説が知られる。当初からこの地にゆかりの深い藤原鎌足が被葬者だとする見方もあったが、これは平安時代中ごろから★「多武峯略記」などに、「鎌足は最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が紹介されていたからでもある(実際に、江戸時代には阿武山の近くの安威集落にある将軍塚古墳が鎌足公の古廟とされて祀られていた)。

 

《十三重塔》

十三重塔は鎌足の長子・定慧が父の墓を摂津の阿武山から移し、唐の清涼山宝池院の塔婆を模して白鳳7(678)年に建てたものである。しかしながら、のちに戦火に焼け落ちたため、現在の塔は享禄5(1532)年に再建されたものである。この塔は木造十三重塔としては世界で唯一現存しているものであり、明治37年に解体修理が行われ、昭和13年、40年には屋根の葺替え工事が行われた。談山神社の十三重塔は★16.17mで室生寺の五重塔は★16.18mである。

 

・・・室生寺の塔とほぼ同じ高さ、つながりというか様々な「塔」について調べてみる価値はありそうです。