・・・自粛ステイホームから、そろそろ活動を開始したいと思いますが、まだまだ予断を許しません。まずは、ゆっくりのんびり「あじさい」したいと思い、行先を検討しました。
《矢田寺》(あじさい寺)
639-1058奈良県大和郡山市矢田町3549/0743-53-1445
http://www.yatadera.or.jp/index.html
矢田寺のあじさいは、本尊様であるお地蔵さんにちなんで、昭和40年頃から植え始めました。あじさいの花びらのひとつひとつが雨に打たれ、さまざまに色が移ろいながら、私たちに仏教の「諸行無常」の心を伝えてくれています。また、あじさいの丸い花は、お地蔵さんの手に持っておられる宝珠の形でもあります。あじさいはアジサイ科の植物で、日本の暖地に自生するガクアジサイを母親として、日本で生まれた園芸品種です。学名の変種名「オタクサ」は、 江戸後期に日本の動植物をヨーロッパに紹介した、長崎出島のオランダ商館の医官シーボルトが、 帰国後、日本滞在中の妻★「おたきさん」を偲んでつけた名前と言われています。あじさいは、日本特有の花木です。諸外国にその野生種はなく、西洋あじさいといわれるものは、江戸後期に、上記のシーボルトなどによって欧州へ送られたものが、改良されたものです。また、梅雨時にさまざまに花の色を変えながら咲き続けるその美しさから、古来より数々の詩歌にも詠み込まれています。
★矢田寺アジサイ園の開園中止のお知らせ
今年も恒例の「アジサイ園の開園」に向けまして庭園の整備等を行ってまいりましたが、過日に新型コロナウイルス拡散防止のため政府より緊急事態宣言が発令されました。当山といたしましても開園によるコロナウイルスの拡散防止と参拝者および地域住民や職員の安全のために閉山すると共にアジサイ園の開園も中止する事といたしました。併せまして例年同時に開催いたしておりました本堂特別拝観と閻魔堂特別開扉も中止といたします。
・・・ということで「隠れスポット」を探しました。
《参考》「多武峯(とうのみね)街道」
https://sakurai-kankou.jimdo.com/
大字浅古にある談山神社の一の鳥居から、五十二石の町石をたどって大化改新(乙巳の変)の主役、中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我氏討伐を話し合ったといわれている談山神社のある多武峯までの古道です。この街道は、松尾芭蕉や本居宣長など、いろんな文化人が歩いた道としても知られています。談山神社まで桜井駅からバスが出ていますが大字浅古あたりで下車し、まだ田舎のにおいが残るこの街道筋を談山神社を目指して歩いてみてはいかがでしょう。途中、聖林寺の国宝十一面観音や、少々寄り道になりますが倉橋の溜池、音羽観音寺、不動滝など名所旧跡があり四季を通して楽しむことができます。
《ホタルブクロ》(蛍袋、Campanula punctata Lam.)Wikiより
キキョウ科の多年草。初夏に大きな釣り鐘状の花を咲かせる。開けたやや乾燥した草原や道ばたなどによく見られる草本で、全体に毛が生えている。根出葉は長い柄があり、葉身はハート形。匍匐枝を横に出して増殖する。初夏に花茎を延ばす。高さは、最大80cmくらいにまでなり、数個の釣り鐘型の花を穂状につける。花は柄があって、うつむいて咲く。暑さには弱い一方、日陰でもよく育つ。山間部では人里にも出現する野生植物であるが、美しいので山野草として栽培されることも多い。花色には赤紫のものと白とがあり、★関東では赤紫が、★関西では白が多い。
・・・一目見てわかる野草、ネーミングも最高で大好きです。
・・・ミドリと赤いポストが、眼に沁みる。
《談山神社》
633-0032奈良県桜井市多武峰319/0744-49-0001
舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、★「大化改新」の談合を行いました。 後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。★藤原の姓はここに始まります。足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。
★「大化改新」/日本大百科全書(ニッポニカ)より
645年(大化1)の蘇我(そが)氏本宗の打倒に始まる内政改革。同年6月に中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智(てんじ)天皇)や中臣鎌子(なかとみのかまこ)(後の藤原鎌足(かまたり))らを中核にしたクーデターが成功し、権力を握っていた蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子が打倒された。これを乙巳(いっし)の変とよぶが、これを発端にして650年(白雉1)ごろまでの内政改革を大化改新とよんでいる。しかし、『日本書紀』大化2年正月朔(ついたち)条が載せる大化改新詔四か条をはじめ関係する諸記載の信用度、および改新の歴史的意義については、現在、学界での見解が大きく分裂・対立している。その分裂は数多くの問題点にわたっているが、〔1〕640年代なかばごろでの公民制に基礎を置く国家理念の有無、〔2〕いわゆる大化改新詔の信憑(しんぴょう)性、〔3〕その歴史的な位置づけ、という3点に焦点を絞ってみると、大局的に次の四つの見解に集約される。それぞれの見解の内部に、さまざまな論点について、多くの推測が対立していることはいうまでもない。(以下略)
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=582
・・・ほとんど参拝者もなく、ゆっくりのんびり「アジサイ」が楽しめそうです。