日本の夏(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《パロディ、二重の声=日本の一九七〇年代前後左右》(2017/2/18~4/16)

https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201702_parody.html

東京ステーションギャラリーで開催「1960年代中頃から日本のアーティストが頻繁に実践し、70年代に入るとテレビや雑誌などを通じて社会的に流行した「パロディ」。ありとあらゆる文化がパロディに染まったこの現象は、モダンとポストモダンの隙間に開花した徒花(あだばな)であったのか? 日本語として定着し、それでいてなお不明瞭なこの「パロディ」という技術または形式を、当時の視覚文化を通じて振り返ります」という趣旨の展覧会。ギャラリー入口の巨大なポスター、象徴的な作品と言うことで横尾忠則の「POPでTOPを!」。★亀倉雄策による東京オリンピックポスターをパロディしたもの。

 

 

《参考》オリンピックのポスターをアートにした亀倉雄策/笹川スポーツ財団より

http://www.ssf.or.jp/history/Olympic_legacy/tabid/1773/Default.aspx

 

 

《NEWS》2020.6.12時事通信社より

新型コロナウイルス感染症のため、来年7月に延期された東京五輪・パラリンピックについて、大会組織員会が国際オリンピック委員会(IOC)との間で、「簡素化」「合理化」を目指す基本原則をまとめた。「それなら…」と開催に理解を示す人がいるかもしれないが、実現に向けては、コロナ対策の難しさだけでなく、五輪の肥大化を招いてきた構造とのジレンマも浮かび上がる。計画の見直し対象は開・閉会式や関連イベントの簡略化、各国役員ら参加者の制限などで、可否や要否の不透明な候補を含めて200項目を超すという。コロナ危機の今後の推移にもよるが、無数の困難が待ち構えていることは容易に分かる。ただほとんどは、ワクチンや新薬にめどが立たない状況で開催を目指すなら、当然取り組むべきコロナ対策。ことさら強調するまでもない。まして「簡素化」と称することには、抵抗がある。五輪批判を和らげ、一見これを機に五輪のあり方を見直すべきだとの主張にも沿うように聞こえるが、そもそも東京大会は、経費も使用施設も「コンパクト五輪」をアピールして招致したのではないか。なのに、まるで既定路線のように拡大を続け、コロナ危機がなければ公約などすっかり忘れ去って開幕を迎えようとしていた。組織委は10日、「2021年の開催に向けた方針」として(1)選手、観客、関係者、ボランティア、大会スタッフの安全・安心を最優先する(2)延期費用を最小化して都民・国民の理解と共感を得る(3)安全かつ持続可能な大会とするため簡素なものとする―を示した。「延期費用」を「開催費用」と置き換えれば、どれも招致ファイルに書いてある。「簡素化」の前提として、「コロナは世界を変え、そして物事の優先順位も変わった」ともうたっているが、この3方針を見ると、では今まで何を優先させてきたのかとさえ言いたくなる。東京大会だけではない、「簡素化」は肥大化を続けてきた五輪の、もはや永遠とも言うべき課題になっている。IOCも改革の重要課題としてきたが、めぼしい成果は挙げてこなかった。それを降って湧いたコロナ対策の「衣」として使っても、どこかに縫い目のずれやほころびが生まれる。

 

 

例えば開・閉会式。「簡素化」に取り組むなら、華美な演出は真っ先に見直しの対象となってきたはずだが、現実は違った。昨年7月にNHKが行った東京五輪・パラリンピックに関する第5回世論調査では、五輪で見たい競技として回答者(2442人)の64.7%が開会式を挙げ、陸上競技の67.0%に次ぐ2位だった(複数回答方式)。閉会式も体操、競泳に次いで5位。他の調査でも似たような結果が出る。政府や組織委が成功体験にとらわれている1964年東京五輪でも、大会後のNHKの世論調査(東京)では、開会式をテレビで見た人(再放送を含む)が95%、閉会式も84%が見たと答えている。三島由紀夫は開会式の後に新聞への寄稿で、五輪反対論にも理解を示しつつ「私の感じた率直なところは『やっぱりこれはやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる』ということだった」と書いた。開・閉会式は開催都市・国にとって、世界へ向けて存在感とメッセージを発信する場であり、国民の「やってよかった」ムードを盛り上げ、犠牲や禍根から目をそらす効果が大きい。ビジネスにもなってきた。高い視聴率はテレビに支えられるIOCには欠かせないプログラムだ。今回の東京五輪の入場料は、最高額が開会式のA席30万円になっている。華美と言われ続け、質素にできそうに思われる開・閉会式が実は、五輪の「表紙」であり「成功感」を大きく支えてきた。「簡素化」と「やってよかった」ムードを両立させる開・閉会式が果たして実現できるか。多くの善意の手を借りることもまた、高揚感の醸成に欠かせない仕掛けとなってきた。数々の関連行事、聖火リレー、ボランティア、今回のホストタウンなどは、人件費の節約になるとともに、参加意識を高めることで五輪開催への賛意を広げる。さまざまな立場で、「お・も・て・な・し」を具現化しようと張り切っていた人たちもいる。関連イベントの簡略化は、高揚感や賛意の減退につながる恐れがある。そうした懸念もあってか、組織委の武藤敏郎事務総長は10日の記者会見で、聖火リレーについて「日程短縮が具体的に話し合われているということではない。あくまで話題として挙げられているということ」と強調した。

そして最大の焦点の一つは、観客の制限だ。組織委は10日時点で、削減検討の対象に観客は含めていないとした。今からそれを言えば、払い戻しなどの問題が大きくなるからだが、さすがに森喜朗会長も「観客については大変重要なテーマだから、コロナの状況によって考えていかなければならん」と語っている。無観客や大幅な入場制限は、大相撲春場所の無観客開催を見た者としてはこりごりだが、やってみれば見えることがあるだろう。純粋にメダルを争う戦いを、主に映像で世界中の人たちに見てもらう。最高峰の技術、戦術、身体能力。それだけで楽しみだし、選手たちの努力を考えると中止よりはいいと思うが、真の競争率や日程の厳しさでは、多くの競技で単一の世界大会の方が、実力世界一決定戦にふさわしい。だが五輪には、1万人を超す選手、30を超す競技が一つの国に会する舞台がつくる特別な空気がある。4年に1度のサイクルがドラマも生む。人々の興奮が付加価値となり、メディアや市場で増幅され、選手とその背後にいる人々や国家のメダル願望を一段とかき立てる。そうした循環を重ねて、五輪金メダリストのステータスが実力世界一のそれを凌駕する価値観が、出来上がってきた。サッカーやテニス、ゴルフなど一部の競技を除いては。開・閉会式がつくり出す感動。参加意識によって広がる賛意と高揚感。人生を懸けた選手たちの気迫と観客の興奮-。そのはずが、閑散とした会場で競技が粛々と進んでいって、見えるものは何だろう。森会長は「従来の派手な華美なお祭り騒ぎ的なことが、多くの人々の共感を得られるだろうか」と語ったが、五輪は「祭典」と名乗ってきた。理念という化粧の下で、純然たるスポーツの魅力を巨大な「祭典」「興行」に仕立て、そこに価値を見いだす人々を吸い寄せて肥大化してきた。そのことが、コロナで分かり始めた。NHKが五輪延期決定直後の3月27~29日に行った全国電話世論調査の単純集計結果(回答者1321人)によると、五輪延期が日本社会に及ぼす影響を尋ねたのに対し、「プラスの方が大きい」は13.7%、「マイナスの方が大きい」は39.6%、「同じくらい」は36.8%。つまり76.4%がマイナスの影響を感じていた。2カ月半たった今、感染者数こそ「小康状態」でも、生活や経済への不安、政府への不満は一段と強くなっている。

 

 

そう考えると、にわかに表面化した「簡素化」という名のコロナ対策は、できるだけの努力はしたが駄目でしたという、中止へ向けた伏線にさえ見えてしまう。しかし、難しかったら中止するだけでいいのか、とも思う。五輪が中止されれば第2次大戦による44年ロンドン大会以来になる。その後も、毎回のように政治の波に揺さぶられ、コロナほどではないが感染症にも直面した。中止です、選手はかわいそうだけど次回頑張ってね、で済ませるなら、IOCはこれまで何度も中止危機をくぐり抜けながら、「中止の仕方」を考えたことがなかったことになる。五輪ムーブメントとは2年に1度、夏冬の大会を開くだけなのか(実際、大多数の人はそう思っているだろう)。例えば、早めに中止を決断して、来年の予定だったのを五輪延期のために22年以降へ延ばした各競技の世界大会を、再び来年実施する方向で努力する余地はないか。単一の大会なら五輪よりは開催できる可能性がある。五輪は中止、世界大会も2年・3年先では、選手は泣くに泣けない。それらの世界大会を「TOKYO2020シリーズ」としてIOCが公認し、勝者に東京大会のメダルを贈る。そして後日、メダリストたちがどこかへ集まり、「コロナ後」のスポーツのあり方を学び合い語り合う。感染防止策で不自由な東京五輪の選手村ではできない。「延期」の選択肢を受け入れた今、そんなことは五輪憲章に書いてないとは言えまい。コロナ危機は、五輪とは何かを考え直すべき機会ではあるが、どこか9月入学の議論に似て、目の前の五輪だけで精いっぱいの人たちには、そこまでの時間も力もない。「これが将来の五輪のモデルになるか」と問われた森会長が、「そんな大上段に構えているわけではない。結果としてあの五輪が正しい五輪だったねと評価してもらえたら、こんなにいいことはない」と答えたのは、率直な思いだろう。

★今するべきことは、本気で開催の可能性を探り、同時に、責任者たちの立場やカネの心配だけでなく、選手のための「中止の仕方」を同じ本気度で考えることではないか。

 

・・・まさしく、「本気」が問われている。次元は違うけれども「パロディ」においても、本気度が問われるような気がしています。「元ネタ」を超えるほどのアートでなければ、多くの人々に受け入れられない。単なる「パクリ」とか著作権をはじめ名誉棄損やらなんやらで「モメル」もとです。しかし、ちょっとした「小ネタ」とか「皮肉」があってもいいような気もしますが、それってアマイのかなあ。さて、

 

 

《豚:Pig Lib》作:吉村益信1994/蔵:大分市美術館

http://www.city.oita.oita.jp/o210/bunkasports/bunka/1329094386005.html

フランスのハム缶詰のポスターを立体化してあります。タイトルも★「Women’s Liberation」のパロディです。

【吉村益信】(1932~2011)

大分市生まれ。武蔵野美術学校卒業。読売アンデパンダン展に発表した後、1960年(昭和35)年、篠原有司男らとネオ・ダダイズム・オルガナイザーを結成。1962(昭和37)年、渡米。ニューヨークにおいて、個展・グループ展などで活躍したが、1966(昭和41)年、ビザのトラブルで帰国。帰国後は、ネオン・アート、ライト・アート、発注芸術の第一人者として、1970(昭和45)年の大阪万国博でも活躍し、「反物質 ライトオン メビウス」や★「豚:PigLib」などの話題作で一躍注目された。その後、エコロジーやインドへの接近など反文明的な姿勢を示したが、70年代後半にはアーティスト・ユニオンの事務局長を務め、アーティストの社会的自立に貢献した。実験精神にあふれ、変容を続けた作家であった。