JAZZ1 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「Black Lives Matter」について考える時、JAZZのことを思う。音楽は少しかじる程度に好きで、制作中には必ずBGMしてるわけです。ジャンル問わずですがやはりJAZZが多く、★「ビル・エバンス」がピッタリきています。

 

【ビル・エヴァンス(Bill Evans)】(1929~1980)

ウィリアム・ジョン・エヴァンス(William John Evans)は、アメリカのジャズ・ピアニスト。 モダン・ジャズを代表するピアニストとして知られ、ドビュッシー、ラヴェルなどのクラシックに影響を受けた印象主義的な和音、スタンダード楽曲を題材とした創意に富んだアレンジと優美なピアノ・タッチ、いち早く取り入れたインター・プレイといった演奏は、ハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレットなど多くのピアニストたちに多大な影響を与えたほか、ジョン・マクラフリンといった他楽器のプレイヤーにも影響を与えている。エヴァンスの作品はジャズ・ミュージシャンの中で知名度が高く、中でも、ドラムのポール・モチアン、ベースのスコット・ラファロと録音した諸作品(特にアルバム『ワルツ・フォー・デビイ』)は、ジャズを代表する傑作としてジャンルを超えた幅広い人気を得ている。また特色ある多数の楽曲を作曲し、そのうちの少なくない数が、後続のジャズ・ミュージシャンの多くにカバーされるスタンダード・ナンバーとなっている。

 

 

・・・もちろん自前CDも聴きますが、最近はもっぱら「アマゾン・ミュージック」です。そして、

 

《ジャズ生誕100周年》

http://jazz100th.com/

ジャズという音楽は、2017年に誕生100周年を迎えます。1917年にオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが初めて「ジャズ」という単語を明記した商業用レコードを録音したことが起源として考えられています。

 

 

・・・ということで、

 

【ジャズを知る】発祥の地は、なぜニューオーリンズだったのか?/TABILABOより

https://tabi-labo.com/279062/jazz-history-04

油井正一さんの著書★『生きているジャズ史』から、その成り立ちについて簡単に紹介したいと思います。ジャズ発祥の地は、アメリカ南部の港町ルイジアナ州・ニューオーリンズ。南部★黒人奴隷たちは南北戦争を経て、1863年に自由を手に入れました。しかし自由になったのはいいのですが、食べていくためには自分で稼がなければなりません。当時のニューオーリンズは、アメリカ政府公認の娼館がある唯一の歓楽都市でした。奴隷解放によって仕事を求めた黒人たちは、ダンスホールや酒場などのBGMとして歌ったり、楽器演奏をして生活することにしました。これが「ジャズ」の始まりです。無職なのに、高価な楽器はどこで調達したのか?その理由は簡単です。南北戦争後ということもあり、南軍の軍楽隊のものがニューオーリンズにあふれ、二束三文で売られていたから。ジャズの楽器が、ピアノやドラム、トランペットやサックスなのも、元はと言えば★軍隊のマーチングなどに使われていた楽器を流用していたからです。当時、音楽の教育をしっかり受けている黒人は、ほとんどいません。そのため大多数の黒人は、★楽譜を読むことができませんでした。当時人気のあったトランペット奏者でさえ、そうだったといいます。そこで、初期のジャズメンたちは酒場などの営業が終わった早朝に、作曲家やピアニストの演奏を★耳コピして曲を覚えていきました。何回も演奏しているうちに、うろ覚えの部分がそれぞれのパートのフレーズで補完され、どんどん違う音楽になっていきました。演奏者のアドリブ次第で同じ曲でも様々なアレンジがされるため、このジャズの★自由さの源流は、初期の演奏者たちが譜面を読めなかったことに由来しているのかもしれません。またニューオーリンズは、★様々な人種が何世代もつながることで、多様な文化を形成していました。それは音楽にも作用し、子どもの頃から耳に馴染んでいた★アフリカの宗教音楽を始め、スペインのハバネラ、フランスの民謡、時にはクラシックまで★多種多様な音楽を取り込み、独自のリズムを作りだしていきました。最初のジャズ王として知られているのは、コルネット奏者のバディ・ボールデンです。演奏者は彼の前にもいますが、今日のニューオーリンズの標準のバンド編成となる、コルネット、クラリネット、トロンボーン、ギター、ベース、ドラムで正式に活動したのは彼が初めてです。ボールデンが最初にジャズを演奏したとされるのが★1891年。黒人が音楽家として名を残すまで、1863年★奴隷解放から30年近くが必要でした。ボールデンのバンドは公園やピクニック、ダンス、カーニバルなど、主に野外で稼いでいたそうです。というのもボールデンのコルネットの音がとにかく大きくてうるさかったからだとか。当時は演奏技術よりも、より長く演奏でき、より大きな音を出せることが重要視されていたようです。ボールデンの人気はものすごく、記録によれば数千人の女性に囲まれて黄色い声を浴びていたのだとか。1890年のアメリカの国勢調査によると、この年のニューオーリンズの人口が242,039人ということなので、女性だけで数千人は大げさかもしれません。ですが、アイドル的な存在であったことに違いはないでしょう。残念なことに、レコード時代よりも前に活躍していた人なので、音源は残っていません。ボールデンはその人気にも関わらず、★報酬は金よりも酒だったそうで、長く貧乏生活をしたあと、後年は発狂し、20年近く病院に収容されたまま、1931年に約70年の人生の幕を閉じました。

 

・・・「金よりも酒」を必要とした人生、そこには深くて重い(暗い)黒人音楽家の生活があったのではないかと察せられます。

 

 

華々しく栄えたニューオーリンズの発展にも陰りが見えてきます。きっかけは、歓楽街ストーリーヴィルの閉鎖です。1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、軍規の乱れを気にした海軍長官によって、強制的に閉鎖されました。これにより職を失ったジャズミュージシャンたちは、新たな活躍の場を求めて北上していきました。ここから、ニューオーリンズのジャズがアメリカ全土に広がっていくこととなったのです。

 

《生きているジャズ史》著:油井正一/立東舎文庫2016

名著として長い間読み続けられている、ジャズ評論家・油井正一氏の1冊が、ここに復刊! ジャズという音楽の歴史を、創世記の時代状況から有名アーティストのエピソード、さまざまなスタイルの栄枯盛衰、背景にある人間模様や人種問題までを織りなして語る、楽しんで読める「ジャズの歴史書」です。ジャズの創世期の時代状況から始まり、有名アーティストのエピソードやブギー・ウギー、ディキシーランド、バップ、クール・ジャズ、モダン・ジャズ、ファンキーなど、様々なスタイルの発生と栄枯盛衰を、その背景や人間模様、★人種問題などを織りなして紹介。「ジャズにおける模倣の問題」、「チャーリー・パーカーの死の瞬間におけるモダン・ジャズ界を斬る」など、題を見ただけで読みたくなる24章で構成されています。約半世紀、名著として語り継がれている本が、改めて文庫として復活。心ゆくまでご堪能ください。

【油井正一(ゆいしょういち) 】(1918~1998)

大正7年(1918年)8月15日、神奈川県横浜市に生まれる。大正13年、兵庫県神戸市に移住し、神戸市立尋常小学校、兵庫県立第三神戸中学校を経て、昭和16年3月に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。昭和11年頃よりジャズに興味をもち、レコード蒐集と研究を始め、昭和14年より『ヴァラエティ』(のちに『ダンスと音楽』と改称)にジャズ評論の寄稿を開始する。昭和27年より『ミュージック・ライフ』に寄稿(昭和27年11月号〜12月号に「ジャズの背景」、昭和29年9月号〜昭和31年11月に「生きているジャズ史」を連載)。昭和30年4月、神戸より上京。以後ジャズ評論界の草分けにして第一人者として活躍する。平成8年、勲四等瑞宝賞。平成10年(1998年)6月8日、脳こうそくのため東京都目黒区の国立病院東京医療センターで死去、79歳。

 

・・・JAZZではありませんが、

 

 

【ディアンジェロD'Angelo】(本名:Michael Eugene Archer)1974~

http://www.sonymusic.co.jp/artist/dangelo/

アメリカ合衆国バージニア州リッチモンド出身のシンガーソングライターである。リッチモンド南部で宣教師の息子として生まれ、幼少の頃から歌い始めた。ヴォーカルだけでなく、ピアノ、ギター、そして作詞作曲といったプロダクション作業までこなすマルチな才能を持つ。影響を受けたアーティストにマーヴィン・ゲイ、プリンスの名を挙げているが、ディアンジェロ自身多くのアーティストに多大な影響を与えているミュージシャンズ・ミュージシャンでもある一面、来日時には巨大ホールも満員にする。芸術性と商業性の両方でゆるぎないポジションを確立している。1995年にファースト・アルバム『ブラウン・シュガー』でデビューし、マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーの時代のソウル感覚とヒップホップ世代の感性を融合させたニュークラシック・ソウル/ネオ・ソウルというひとつのムーブメントを作り出し、数々のフォロワーを生み出した。そして2000年にセカンド・アルバム『ヴー・ドゥー』を発表し、名実共にネオソウルを代表するアーティストとなった。 その後、しばらく自身名義の作品のリリースが途絶えたが、2014年12月15日に14年ぶりとなる3枚目のアルバム★『ブラック・メサイア』がデジタル配信でリリースされた。尊敬するプリンスとは異なり寡作ではあるもの、客演やカバー、楽曲提供は数多くこなしている。インタビューで「自分のことをR&Bシンガーだと思ったことはない、いつだってR&Bなんてくだらないと思っていた」と答えており、初めて作った曲もヒップホップで、常日頃からラップもしているとのこと。

★『ブラック・メサイア』(黒い救世主)

ディアンジェロは、2013年の黒人少年を警官が射殺して不起訴となった事件や11年のエジプト革命や11年に起きたウォール街での抗議活動に触発され、そこで感じた怒りと立ち向かう勇気をモチベーションにして、現代では困難なはずの「レベル・ミュージック」でもあり「ポップ・ミュージック」でもある本作を作り上げた。ディアンジェロはこのプロジェクト名を“D’Angelo and The Vanguard/ディアンジェロ・アンド・ザ★ヴァンガード”としている。この作品のリリースに際し、ディアンジェロ本人は以下の声明文を発表している。

“ブラック・メサイア”は、アルバムに付けるものとしては、とんでもないタイトルだ。容易に誤解を招くであろうし、多くの人は宗教的な事を想像するだろう。人によっては俺が自分自身を“ブラック・メサイア=黒い救世主”と呼んでいるものと決めつけるかもしれない。だが、俺にとってこのタイトルは★俺達みんなについての事を意味しているんだ。それはこの世界全体についての事でもあるし、俺達みんながめざすことのできる考え方を示すものでもあるんだ。俺達は皆、“ブラック・メサイア”になれるように志すべきなんだ。それは、“ファーガソン”(=ミズーリ州セントルイスにあるこの地で今年8月丸腰の黒人少年を群の警察官が射殺したことをきっかけに起った抗議デモ、暴動について言及している)や、“エジプト”(=’11年に起ったエジプト革命に言及している)や、“ウォール街を占拠せよ”(=’11年にウォール街で起こったアメリカ経済界、政界に対する一連の抗議運動を主催する団体名、またはその合言葉について言及している)その他、これ以上★我慢がしがたい状況に対して変化を求めるべく決起している全ての場所の全ての人々についての事なんだ。それは一人のカリスマ性のあるリーダーを称賛するということではなくて、大勢のそういった★人々を讃えるということなんだ。このアルバムの全曲が政治的メッセージ色の強いものではないけれど(多くの曲がそうではあるけれども)、このアルバムを“ブラック・メサイア”と呼ぶことがこれらの曲が一番しっくりくる風景を作りだしている。“ブラック・メサイア”は一人の人を示すものではない。それはまとめると、★俺達みんながそのリーダーなんだという感覚を示すものなんだ。

 

 

※「ヴァンガード、バンガード(Vanguard)」

英語では「先鋒、前衛」という意味の名詞で、語源はフランス語のアヴァンギャルド(Avant-Garde)が訛って:頭音消失した結果。船や潜水艦、宇宙船などの名前に好んで用いられている。

 

《参考》「ヴィレッジ・ヴァンガード」(Village Vanguard)

https://villagevanguard.com/

アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタン区グリニッジ・ヴィレッジに所在するジャズクラブ。初代オーナーはマックス・ゴードン。住所は7番街 178番地。1935年に開店した当初は★前衛芸術家の発表の拠点だったが、1940年代後半からジャズのライブを行うようになり、ジャズ界の名門クラブとして知られるようになった。1957年11月3日、ソニー・ロリンズがここで『ヴィレッジ・ヴァンガードの夜』を録音し、以後★ビル・エヴァンスやジョン・コルトレーンなど著名なジャズ・アーティスト多数が、優れたライブ録音を残した。1989年にマックスが他界してからは、妻のロレイン・ゴードンが経営を引き継ぐ。

 

・・・時代のアヴァンギャルド、ヴァンガードでありたいと思う=夢です。せめて、爪の垢でも煎じて呑みたいものです。