・・・「玉手箱プロジェクト」1周年記念第2弾は、「こばこ(筐)」です。
《参考》
●「はこ(箱・函・筥・匣★筐)」
①物を入れておく器。多くは直方体で蓋(ふた)が付く。
②列車の車両。 「どの-も満員だ」
③三味線を入れる物。また、三味線。また、三味線を持って芸者に従って行く男や芸者をもいう。
④得意にしている物事。箱入り。 → おはこ
⑤厠(かわや)に置いて大便を受けるもの。しのはこ。また、大便。 「 -すべからず/宇治拾遺 5」
⑥挟み箱。
⑦「箱入り娘」の略。
※の形をしたもの、あるいは、それに入れたものを数えるのに用いる。「みかん二(ふた)-」
●「梵筐(ぼんきょう)」
筐とは書きますが元々は★貝葉経を束ねた装丁方式をさします。貝葉経は穴が一つないし二つ開いており、それを束ねたものの上下に加飾された木製の蓋で挟み穴に紐を通して固定するものです。中国では挟む意味の梵莢方が一般的か。図像としては多くの★般若菩薩が持っているものが梵筐です。次第に葉から紙になるので言葉の幅は広がるのだろう。
●「筐体(きょうたい)」
何らかの機能を有する機械や電気機器などを中に収めた箱のことを言う。フレームを含めた外装をさす。一般的に筐体という語が用いられるのは、単にその機器を保護したり、パソコンなど発熱する機器の場合にその放熱を助けるためだったり、あるいは裸で設置することが何らかの理由で困難であるために使われる、といったような場合である。ただし、大型のアーケードゲームの筐体などのように、機能を実現するために必要とされるような特定の形状をもつものについて使われることもある。機器の保護に関しては、衝撃や圧力、電磁波、光などに対する防御などが考えられる。
英語では、ケース (en:Case)、ハウジング (en:Housing)、エンクロージャー (en:Enclosure)などと呼ばれるものに相当する。「筐」が常用漢字に含まれていないため、「きょう体」とまぜ書きされることもある。
※マナシカタマ(無目籠)
竹で編んだ目の細かいカゴのこと。カゴを船として利用していたらしい。カタマ・カツマが「カゴ」をさす。カタマの語源はハッキリしないが「堅」+「編む」、「かた(交)」+「あみ(編み)」と考えられる。★ベトナムには竹製のカゴ船に乗り、海で漁をする地域が現在でもある。この文化が黒潮に乗り、沖縄→九州南部へと渡ったのではないかと思われる。
・・・「筐」は、「かたみ」「はこ」「きょう」などの他に、「こばこ」という読み方もあります。
《NEWS》2020.5.22NEWポストセブンより
最高視聴率は62.3%、大村崑が振り返る★『番頭はんと丁稚どん』
テレビが普及し始めた1950年代後半、関西局制作のバラエティ番組は“一発勝負”の生放送でお茶の間を沸かせた。先陣を切った番組が、大阪テレビ放送(現・朝日放送)制作の『ダイハツコメディ やりくりアパート』(1958~1960年)だ。大阪の下町にあるアパート「なにわ荘」の管理人を演じる横山エンタツが、大村崑、佐々十郎扮する学生と女形の茶川一郎の3人組とドタバタ劇を巻き起こした。「ラジオで人気絶頂だったエンタツが主役だったが、それを凌ぐ人気だったのが大村崑と佐々十郎。ダイハツ・ミゼットの生CMでは、佐々が一生懸命に車の長所を説明して、その後に『ミゼット!』と決めゼリフを言おうとするが、大村崑が先に『ミゼット!』と叫んで一番オイシイところを奪ってしまう。頭に来た佐々が大村を叩こうとして空振りし、逆に大村におでこを叩かれる。最後に佐々が『ミゼット!言うたった……』と半泣きでつぶやくのが笑えた」(兵庫県在住の元公務員・78)同じく大村が出演した『番頭はんと丁稚どん』(1959~1961年、毎日放送)も、最高視聴率62.3%を記録する超人気番組だった。当時、開局したばかりの毎日放送には十分なスタジオがなかったため、大阪・ミナミの映画館だった南街会館に観客を入れて公開生放送した。会場にはスターたちを一目見ようと大勢の観客が押し寄せたという。喜劇の舞台は大阪の薬問屋。一松(茶川一郎)、崑松(大村)、小松(芦屋小雁)の“丁稚三人組”がボケ、小番頭(芦屋雁之助)がツッコミだった。「小番頭が点呼を取ると、丁稚たちが『いち』『に』と続いた後に、大村崑が『みっつ』とズレた返事をして、小番頭にバケツをかぶされて叩かれるんです。バケツを外して5秒以上経ってからやっと『あ、痛っ』と反応する(笑い)。丁稚の小ボケと番頭のツッコミの掛け合いが可笑しかった。いつも最後には女将さんから『こら番頭、丁稚に謝れ』と言われて、番頭が『俺が悪かったよ』と謝り、丁稚たちがバンザイする。お決まりのパターン、毎週同じくだりなのにムチャクチャ笑えました」(大阪府在住の元会社役員・76)ただし、出演者には生放送ならではの苦労があった。大村崑氏(88)が振り返る。「生放送なのにアドリブばかりで大変でした。僕は小ボケの丁稚役で、叩かれてから5秒で『痛っ』と言うところを、アドリブで10秒に延ばしていた。だから時間が押して押して仕方なかった(笑い)。その調整をするのが小番頭(芦屋雁之助)でしたが、丁稚のセリフをとばして次のセリフを言ってしまうこともあった。生放送なので、とにかく時間内に最後のオチまで終わらせないといけない。毎回ヒヤヒヤしました」同作は映画化されたのち、1965~1967年には大村崑、花紀京、頭師佳孝トリオの『いとはんと丁稚どん』、1975~1983年には木村進、内場勝則、間寛平、坂田利夫らによる『あっちこっち丁稚』などとリバイバルされ、時代を超えて愛された。※週刊ポスト2020年6月5日号
・・・その「番頭はんと丁稚どん」の脚本を書いたのが、
【花登★筺(はなとこばこ)】1928~1983/山善ミュージアムより
https://www.yamazen.co.jp/museum/drama/hanato/
昭和3(1928)年3月12日、滋賀県大津市上北国町(長等1丁目)に生まれる。本名は善之助。大津市立長等小学校、滋賀県立大津商業学校を経て同志社大学商学部に進学。昭和22(1947)年、北国町青年団の一員として演劇活動を始める。昭和23(1948)年、大津で自立劇団人間座の結成に参加。その後、文芸座を設立し、地元の芝居小屋や大津市中央公民館などで文芸作品を上演する。昭和26(1951)年、同志社大学卒業後、大阪・船場の綿糸問屋「田附商店」に入社するが、肺湿潤を患って翌年退社。大喀血により死線をさまようが、九死に一生をとりとめる。健康を回復後、作家を志し、ラジオドラマの台本を書いては放送局に持ち込む。ラジオの台本作家を経て、昭和33(1958)年『やりくりアパート』(大阪テレビ放送)の脚本・演出でテレビ脚本家としてデビュー。昭和34(1959)年には、出世作となるコメディドラマ★『番頭はんと丁稚どん』の脚本を手がけ、喜劇作家として名声を確立する。昭和45(1970)年には、貧乏旅館に嫁いだ女性の奮闘ぶりを描いた『細うで繁盛記』(よみうりテレビ)の脚本を執筆し、大ヒットを記録する。続いて昭和48(1973)年に根性ドラマの傑作『どてらい男』(関西テレビ)を手がけ、同作品は連続ドラマとしては異例のロングランを記録する。昭和58(1983)年9月、北海道で執筆中、体調を崩して帰京し、昭和大学病院に入院。同年10月3日午前2時50分、肺ガンのため死去する。享年56歳。多作で、生涯に手がけたテレビ脚本は★6000本、舞台脚本数は500本に及ぶ。速筆でも知られ、最盛期には大阪~東京間を移動する新幹線の車内で原稿用紙に向かい、1時間ドラマの台本を書き上げたことから"カミカゼ作家""新幹線作家"の異名を取った。活動はテレビや舞台の脚本、小説の執筆にとどまらず、舞台の演出にも及んだ。昭和34(1959)年には喜劇集団「笑いの王国」を設立。メンバーには大村崑、芦屋雁之助、芦屋小雁など関西を代表する喜劇人が顔を揃えた。昭和47(1972)年には劇団「喜劇」を主宰し、舞台人の育成に尽くした。
・・・★テレビっ子の幼少期、「はなとこばこ」という名前は否応なしにきっちり刷り込まれてしまったのです。
《おまけ》メガネをはずした★三木のり平/「桃屋」より
https://www.momoya.co.jp/gallery/norihei/about/
桃屋がテレビCMを開始したのは、★1953(昭和28)年。その後、少ない予算でありながらも、もっと印象的なCMをつくろうと考え、1958(昭和33)年、新聞のシリーズ広告でおなじみとなった、のり平さんのキャラクターでいろいろなパロディアニメをつくろうということになりました。第1作は、歌舞伎十八番の助六篇でした。その頃、のり平さんと芸風の似た喜劇役者が現れました。大村崑さんです。その大村崑さんが★「番頭はんと丁稚どん」「とんま天狗」でブレイクしたのは1959(昭和34)年です。のり平さんは、大村さんをかわいがり、「とんま天狗」に大村さんの父親役で出演。その時に、「これから先も鼻メガネをかけてやるなら、やっていいよ」とメガネの芸を譲ってしまいました。つまり、三木のり平さんは、桃屋のテレビアニメCM開始1年でメガネをかけない姿で、映画、舞台で活躍するようになりました。後年ののり平さんは、「ボクはね、ひとつ何か当たると、それをすぐあきちゃうんだ。ただ、桃屋のCMだけは、アニメだからあきないんだよ」とよく話していました。たいへん寂しいことですが、三木のり平さんは、1999(平成11)年に亡くなられました。しかし、桃屋のキャラクター「のり平」は変わらぬ味を大切に、メガネスタイルでこれからも元気に活躍していきます。
・・・たかが「メガネ」されど「メガネ」です。私も「メガネ」かけているだけに、むっちゃ親近感なのです。もう5月終わりますが、6月はこの混乱が収束(終息)してくれることを祈ります。