pakoni(筐) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「玉手箱プロジェクト」1周年記念第3弾は、「箱の歴史」を振り返ります。

 

《参考》 源氏物語「早蕨」(さわらび)より

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/index48.html

阿闍梨の歌は、「君にとてあまたの春を摘みしかば 常を忘れぬ初蕨なり」

阿闍梨は、姫君たちの亡き父八の宮が存命であったころから、「君(八の宮)」のために、毎年春になると、初蕨などを摘んで贈っていました。今年も同じように、春の訪れとともに、蕨などがとれましたよ、という歌です。それに対して、中の君は、姉の大君が生きていた頃なら、亡き八の宮を偲んで、毎年の春の贈り物を見せ合うこともできたけれど、その大君さえも亡くなってしまった今となっては、この春の贈り物を見せ合って、共に死者を悼む人もいなくなってしまったと嘆くのです。毎年の春の贈り物は、亡き八の宮を供養する★「形見」となりうる思い出のある品であり、その春の贈り物とは、★「筐(竹籠)」の中に摘んだ「早蕨」なのです。ちなみに、前年の新春、椎本巻において、同様に阿闍梨が姫君たちに蕨を贈っています。このときは、まだ大君も生きていました。大君・中の君は、二人で父の亡き春を偲び、悲しんでいます。それを踏まえると、さらに、この時の中の君の悲しさが増して感じられます。

※源氏物語「早蕨」紫式部/訳:與謝野晶子/青空文庫より

https://www.aozora.gr.jp/cards/000052/files/5065_15348.html

 

 

・・・この一場面だけでも(北斎も描いています)様々な「筐(竹籠)」の表現があり、とても興味深いですね。部分的ではありますが、日本の名作を味わえる自分になりたいと、願っています。

 

 

《pakoni(筐)》

「はこ」は朝鮮語のpakoni(筐)と同じ起源のことばということから、大陸から入ってきたものと考えられる。古くは箱の中に★魂を封じ込めたり、人を幸せにする力をしまうことができると考えられていた。浦島太郎の話にある玉手箱などもその例で、★玉はすなわち魂のことだという。こうしたことは、当時の人々が箱を★非常に貴重なもの、神秘的なものとみていたことを示している。

伊勢神宮でいまでも神宝(しんぽう)とされている★柳箱(やないばこ)などは、柳の細い枝を糸でつないでつくられているが、古い時代における箱作りの困難さがうかがえる。また大阪府高槻市高垣町の弥生時代★「安満遺跡」からは子ども用木棺が発見されており、古墳時代後期の石棺からは当時すでに追入接(おいいれつぎ)、包打付接(つつみうちつけつぎ)、小孔接(こあなつぎ)などの★箱作りの基本的技術が行われていたことがわかる。

 

・・・「pakoni」は「パコ」と発音するのでしょうか?日本と大陸との関係、そして日本独自に発展した歴史など、「箱」ひとつにしても歴史っておもしろいですね。

 

 

《参考》【伊勢外宮参宮みやげ】~外宮の歴史文化を伝える~

「神都」と呼ばれる伊勢は、神宮の鳥居前町として伊勢神宮の歴史とともに歩み、栄えてきました。森の中の皇大神宮(内宮)は宇治地区にあり、豊受大神宮(外宮)の周辺に山田のまちがあります。神々の食を司り、五穀豊穣や子孫繁栄を祈り続けた外宮に感謝し、さまざまなジャンルのつくり手がその思いをカタチにしました。

★伊勢外宮参宮みやげ「神たまて筥(ばこ)」

重厚な存在感を放つのは、柾目が美しい杉の「箱」。神具に携わる伊勢宮忠の技術を施した、繊細な仕上がりです。昔から、神棚や神具の材となるのは神の木とされる桧でしたが、これに対して人は杉の木を用いたと言われることがあり、伊勢らしい箱として杉材を選びました。また、神様に奉納する御神宝などを入れる「柳筥(やないばこ)」から、箱の字には「筥」を当てました。お神札やお守り、また恋文や家族、恩師からの手紙など、大切にしておきたい祈りや気持ちも添える箱。そっと蓋を開けるたび、杉の木の柔らい質感や心落ち着く香りを感じてみましょう。

 

 

《安満遺跡公園》

569-0096高槻市八丁畷町12番3号/072-648-4725

https://www.seibu-la.co.jp/park/ama-sitepark/

高槻市の駅チカに弥生時代の遺跡が眠る貴重な空間。この公園は歴史資産「安満遺跡」を活かした緑豊かな公園をめざしています。高槻のセントラルパークともいえる広大な緑空間。この場所は新たな時代をつくる緑のオープンスペースとして生まれ変わります。みなさんのライフスタイルにあわせてお楽しみください。

安満遺跡は、約2500年前の弥生時代の環濠集落跡を含む、約72万㎡に及ぶ集落遺跡です。弥生時代の「クニ」の移り変わりを明らかにすることができる大変重要な大規模遺跡で、平成5年に国の史跡に指定されました。(平成23年に追加指定)弥生人が住居を建て環濠をめぐらせた「居住域」、水田を営んだ「生産域」、お墓を作った「墓域」の3つの要素がコンパクトにまとまっており、弥生時代の暮らしぶりをたどることができます。

http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daio/kodairekishikan/1527727834151.html

遺跡は、1928年に京都大学大学院農学研究科附属農場建設工事の際に発見された。さらに1966年頃から、住宅開発が始まったことをきっかけに農場北側の発掘調査が行われ、集落跡が広範囲に広がっていることから、比較的大きい規模の集落がこの地に拓けていたことが判った。1928年の調査で多量の弥生時代の石器や土器が出土し、これらの出土品から★弥生文化が北部九州から畿内へ流入したと初めて指摘された点で学史上著名な遺跡である。また、この地が弥生文化を知る上で重要な遺跡であることから、農場北側、東西600m、南北100mの範囲が国の史跡に指定されている。全体では東西1500m,南北600mに及び、当時の土地利用が明らかになっている遺跡である。1966年からこれまで、50回以上に及ぶ発掘調査が行われている。

三島地方で初めて米作を始めた土地であり、弥生時代前期から中期まで続いた集落があったとされている。居住群のまわりに壕でめぐらせる環濠集落跡で、集落の南側に用水路を備えた水田が広がり、東側と西側は墓地になり、★方形周溝墓が100基以上確認されている。このあたりは湿地帯で、遺跡の北東に流れる桧尾川の洪水や氾濫に脅かされることも多かったため、一時期山麓の芝谷遺跡などの高地性の集落へと移った形跡があったとされている。

かつて当地に存在した京都大学大学院農学研究科附属農場の移転に伴い、その跡地を含めた一帯を高槻市が★「安満遺跡公園」として整備し、本遺跡を保存・活用するとともに、防災機能を備えた大規模公園として整備する工事が進められている。2019年3月、公園西側が一部開園。引き続き東側の工事が行われており、★2021年の全面開園が予定されている。

《参考》「方形周溝墓」

近畿地方で木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓が登場した。平坦な丘の頂、沖積地の微高地などにおいて集落のちかくに営まれることが多く、これを方形周溝墓という。平面形に多様さや石列は見られない。供献の土器類は、地域によって異なるが、一般に壺・高杯に器台・甕、鉢、その他などが加わる。

しかし遺物としては奈良時代からである。とくに★正倉院には多数の箱が残っている。実用的な箱と装飾的な箱があり、実用的なものはスギやケヤキなどを使った白木造りや簡単な漆透明塗りが多い。小箱から櫃(ひつ)まであるが、この系統の箱は基本的にはそのまま変わらずに最近まで続いている。装飾的な箱の多くは大陸からの舶載品だと推定されるが、技術的にも意匠的にもきわめて高度なものである。鏡箱、玉帯(ぎょくたい)箱、経箱、冊子箱などの身辺雑具入れが多く、紫檀(したん)、白檀(びゃくだん)、沈香(ちんこう)などの銘木を用いて金銀彩絵や密陀(みつだ)絵を描き、螺鈿や木画を施し、べっこうや象牙などで飾られている。形も方形、円形、多角形、花形と変化に富んでいる。

 

 

平安時代になると蒔絵で装飾した箱が発達するが、これがわが国の貴族調度の典型となってそののち近世まで続いていく。こうしたなかから発達してきたのが、化粧道具類を入れる手箱、櫛箱類、衣服などを入れる櫃類、衣服などの贈り物をのせる広蓋(ひろぶた)、衣類などを入れて棒を通して担ぐ挟み箱、冠(こうぶり)箱の類、紙や冊子類あるいは手紙などを入れる料紙箱や文箱類、硯箱、さらに食物などを入れる重箱、食籠(じきろう)、硯蓋の類などである。また宗教関係から発達した箱も多い。経箱、袈裟箱などのほか、特色あるものとして密教の灌頂(かんじょう)(受戒の儀式)のときに戒文を納める戒体箱、説教文を納めて脇机に据える居(すえ)箱などがある。なお「はこ」ということばが★特定の意味で使われることがある。大便器、三味線箱、汽車や電車の車両、牛車(ぎっしゃ)の屋形などであるが、このほか、得意の技芸を★「おはこ」ということもある。

物を収納する容器で、筥、、篋、匣、筐、匱、函という漢字も同意語として使用する。素材、形、用途などからみて多種多様であり、実用品から装飾品に至るまでその範囲は非常に広い。基本的には、★蓋(ふた)と身から成り立っている。はこ★(波古)と音したのは、奈良時代の正倉院文書にある。

古代の筥に収納するものは、古くは超自然的で神秘的な存在や、★人に見せてはならない重要なものを込めた。そのために装飾を施して、定型化した筥がつくられた。古くは、竹のひご、木・草の皮や芯、蔓などを編んでつくった藍胎(らんたい)、柳箱(やないばこ)、葛箱(つづらばこ)など、また木の内部をろくろでくりぬいた挽物(ひきもの)、薄い檜板を曲げてつくる曲物がおもなものであったが、やがて木板を接合してつくる指物(さしもの)が箱製作の技術の主流となった。その間にあって、動物の皮革を素地とする漆皮(しっぴ)や、銅板にめっきする技術も中国、朝鮮から伝来した。また紙や布帛(ふはく)をそれぞれ貼り合わせ、漆を塗ってつくる素地も行われた。それらの形態も長方、正方、多角、円と内容品によって多種にわたった。形の構造は蓋の形態によって種別され、かぶせ蓋、印籠(いんろう)蓋(合口造(あいくちつくり)ともいう)、桟(さん)蓋、挿(さし)蓋などがある。また底の形式には平底、上げ底、さらに台指(だいさし)、三脚付きがある。また外形上の特徴をみると、大陸からの影響が強かった奈良時代には、蓋の上面の縁を斜面にとった切面取(きりめんと)り、側面の縁を切った隅切などの直線的な外輪郭が現れ、国風化のみられる平安時代には蓋の甲面が盛り上がり、胴の中央部が張り、それぞれの角が丸くなったり、入り込んだりするように★柔らかみと温かみのある曲線化の傾向に変化している。

筥の種類をみると、正倉院には鏡箱、冠笥(こうぶりはこ)、双六箱、袈裟箱、書類入れ箱、香箱、念珠箱などがある。また『延喜式』には衾(ふすま)筥、衣筥、剣緒(つるぎのお)筥、巾(ひれ)筥、唾巾(たきん)筥、櫛筥、刀子(とうす)筥などが記され、『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』に枕筥、香壺筥、薬筥、雑紙筥などが棚に置かれている図が記されている。とくに当時の貴族の女性の座右にあって、★教養と美容のための必要品を収納した手筥も内容品とともに図解してある。代表的遺品に、片輪車螺鈿蒔絵手箱(国宝、東京国立博物館)がある。とくに筥は女性の生活に必要な道具を収めるものとして、その装飾を★華麗に施して婚礼にもつべき道具となった。

 

・・・6月から「玉手箱プロジェクト」展示を再開いたします。どうぞ皆様のご協力よろしくお願い申し上げます。