・・・2020年5月は「玉手箱プロジェクト」1周年ですが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため展示替えも自粛しておりました。どこかで大林宣彦さんのことも書きたいと思っていましたので、この機会に紹介していきたいと思います。
《キネマの玉手箱》配給:アスミック・エース株式会社
★公開延期のお知らせ
2020年3月31日『海辺の映画館-キネマの玉手箱』製作委員会
2020年4月10日(金)より公開を予定しておりました映画『海辺の映画館ーキネマの玉手箱』は、新型コロナウィルス感染拡大状況ならびに新型コロナウィルス感染症対策本部において示された方針等に鑑み、公開延期を決定いたしましたことをお知らせ致します。また、順次公開を予定していた全国上映予定劇場につきましても、同様に延期となります。公開を楽しみにお待ち頂いたお客様には心よりお詫び申し上げます。変更後の公開日につきましては、決まり次第、公式HP等でお知らせ致します。なお、お買い上げいただいた前売鑑賞券(ムビチケ)につきましては、延期後の劇場公開時もご使用いただけますので、そのままお持ちください。
《参考》第4回尾道映画祭2020開催中止の決定について/尾道映画祭実行委員会
尾道映画祭実行委員会は、新型コロナウイルスへの有効な治療薬や対処法の先行きが見通せない中、来場者および関係者の方々の健康や安全面などを第一に考え、22月28 日から3日間、尾道市で開催を予定していた「第4回尾道映画祭2020」の中止を決定いたしました。約3,000人の不特定多数の来場者の方々に感染するリスクを排除しきれない可能性があり、当委員会としては、このようなリスクを避けることが最重要と判断し、誠に遺憾ではありますが、開催を中止することといたしました。皆様のご理解をいただきますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
・・・残念ですが「玉手箱」は閉じられたまま、公開が楽しみです。
●大林宣彦監督が新しい世代へ託すメッセージ「映画は未来を変えられる」
エネルギッシュなパワーが爆発する、誰も体験したことがないエンタテインメントが誕生。大林宣彦監督が、20年振りに「尾道」へ還ってきた。尾道にある海辺の映画館を舞台にした最新作は、まさに“キネマの玉手箱”物語は、戦争の歴史を辿りながら、無声映画、トーキー、アクション、ミュージカルと様々な映画表現で展開していく。メインキャストとして、銀幕の世界へタイムリープする3人の若い男を、厚木拓郎、細山田隆人、細田善彦が演じ、3人の男たちそれぞれの運命のヒロインを本作が映画初出演となる吉田玲、大林組初参加の成海璃子、前作に続く出演となる山崎紘菜が演じている。また、本作の物語の核となる移動劇団「桜隊」の看板女優を、近年の大林作品を支える常盤貴子が演じる。生のエネルギーにあふれた、誰も体験したことがないエンタテインメントが、幕を開ける。
“情熱”と“想い”を伝えるため集まった豪華キャスト陣。豪華出演者の奇跡のコラボレーションにも注目。メインキャストのほか、小林稔侍、高橋幸宏、白石加代子、尾美としのり、武田鉄矢、南原清隆、片岡鶴太郎、柄本時生、村田雄浩、稲垣吾郎、蛭子能収、浅野忠信、伊藤歩、品川徹、入江若葉、渡辺裕之、手塚眞、犬童一心、根岸季衣、中江有里、笹野高史、本郷壮二郎、川上麻衣子、満島真之介、大森嘉之、渡辺えり、窪塚俊介、長塚圭史、寺島咲、犬塚弘など、大林組常連から、初出演のキャストまで、大林監督の“映画への情熱“と“平和への想い”を受け止め、さまざまな分野からキャストとして参加。 さらに、本作のポスタービジュアルは、日本を代表するアートディレクター★森本千絵が手がけている。
http://www.goen-goen.co.jp/news
《キネマの玉手箱》著:大林宣彦/出版:ユニコ舎 2020/4/25
★大林宣彦アーカイブ
https://obayashinobuhiko.life/
《NEWS》2020.4.17シネマズPLUSより
大林宣彦監督追悼:お茶目で反骨、素晴らしき“映像の魔術師”の映画人生
大林宣彦監督が2020年★4月10日に82歳で亡くなられました。大林監督といえば『転校生』(82)『時をかける少女』(83)『さびしんぼう』(85)の尾道三部作などで多くの映画ファンにリスペクトされ続け、また晩年は『この空の花-長岡花火物語』(12)『野のなななのか』(14)★『花筐/HANAGATAMI』(17)そして遺作となった★『海辺の映画館―キネマの玉手箱』(20)と、戦争への激しい怒りと平和への祈りを込めた作品群を連打されていました。
「映画作家はジャーナリストであるべきだ」大林監督は常にこう言い続け、またそれを実践され続けました。また自分は“映画監督”ではなく“映画作家”であるとも。それは自主映画からキャリアをスタートさせた彼ならではの「映画を商業主義の商品の域に留めておきたくない」とでもいった反骨の映画愛の顕れでもあったように思われます。一方で、大林監督作品は常にお茶目で、時にキテレツで、まるで★おもちゃ箱をひっくり返したように賑やかな愉しさの中に映画ならではの抒情を醸し出させることに長けていました。それが“映像の魔術師”とも謳われた所以です。
【大林宣彦】(1938~2020)
1938年1月9日に広島県尾道市に生まれ、2歳で映写機のオモチャに触れ、6歳にして35ミリのフィルムに手描きしてアニメーションを作っています(この時期のエピソードを基に、2000年に『マヌケ先生』が作られています)。一方では戦争の空気を肌で知る世代であり、そこでは死と生が常に隣り合わせであることを、幼いながらも感じ取っていたとのこと。戦後になるとアメリカ映画に夢中になり、やがて8ミリ・キャメラを手に自主映画制作を本格的に開始。当時まだ8ミリで映画を撮るという概念は薄く、その意味でも日本における映画の自主製作&自主上映活動の先駆者として知る人ぞ知る存在になっていきます。(当時は小型映画、個人映画、実験映画、前衛映画などと呼ばれていたようです)中でも1967年に発表した16ミリ作品『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』は、まさに伝説的作品として今なお語り継がれていますが、ここでうかがえる大林監督の怪奇映画嗜好は、後々の自身のキャリアにも大きく影響しているように思えます。1960年代なかばからはCMディレクターとして活動。テレビ草創期でCMが映像ジャンルの中で見下されていた時代、大林監督は逆に「コマーシャルを利用して、自分の映画を作ってしまおう!」と積極的に取り組み、ついにはチャールズ・ブロンソンやソフィア・ローレン、カーク・ダグラスら海外の大スターを起用してのCM=大林映画を撮るに至るのでした。こうした勢いに乗せて1977年、大林監督は初の商業映画『HOUSE』を発表します。まだ日本映画界に撮影所システムが健在で、助監督を務めてから監督に昇進するのがならわしだった時代、製作元の東宝内では多くの反対の声があったとのことですが(皆を説得したのが岡本喜八監督だったとのこと)、結果的に映画業界外の人間が映画を撮るという意味での先駆者になりました。自主映画、CMディレクター、そして映画業界外から参入した監督と、いずれの分野においても大林監督はその先駆けとして活動していったのでした。
・・・次に「花筐」を紹介します。
《花筐(はなかたみ)》
映画『花筐』の源となる脚本の初稿は、いまを去る40数年の昔、僕、大林宣彦の劇場用映画第一作『HOUSE/ハウス』(77)を撮るよりも前に、第一作を『花かたみ』として製作する予定で書き上げておいたものである。三島由紀夫がこの一冊を読んで小説家を志したという、★檀一雄最初の短篇集に収められた鮮烈な純文学『花筐』が原作である。文豪★佐藤春夫による一頭の蝶の絵の装幀に、 僚友★太宰治が帯文を寄せた箱入り愛蔵本を手に、これを映画化するのは僕の終生の夢であった。檀一雄さんの生前にお逢いして映画化の許可は戴いており、この空想的で美的な言語世界を映画にするには何処が宜しかろうかと伺ってみたところ、「唐津へ行ってご覧なさい」、と微笑みながら一言。檀さんはその頃既に重い病に臥しておられたのでありました。それから日が経ち、檀一雄さんの訃報が御子息の檀太郎君から告げられた。僕の青春のひとつがそこで終わり、映画『花かたみ』の脚本は書棚の奥深くに仕舞われて、永い眠りの時の中に入って了った。それから更に歳月が流れ、僕は独り、遠い青春の記憶を弄っていた。映画が誕生するにも、「旬」があります。40年前には見えなかったものが、いままざまざと見えてくる、ということも。昭和11年(1936年)文芸誌に『花筐』が発表されたその翌年、処女短篇集『花筐』の出版記念予告日に檀一雄は召集令状を受け取り、戦地へ赴いている。そして多くの尊い命が、戦場の露と消えた。一見、放蕩無頼にも見ゆる本作の若き登場人物たちの精神や行動も、まことは切実なる生きる意志、――我が命は、魂は、我が信じるままに自由であらせよ、と願う、その純血の現れであったか、と。僕はこの物語を、いま新たに昭和16年(1941年)、あの太平洋戦争勃発の年に置き換えて語ってみようと思う。それはいまを生きる僕らに、より切実な、戦争の記憶であるから。「これは、いま必要な映画ですね」。唐津の里の里人のこの一言に励まされながら・・・。
《かたみ(筐)》
竹製の目の細かい籠(かご)。勝間(かつま)。堅間(かたま)。 「春の野の-につめる若菜なりけり/新古今 春上」
※新古今集・春上・一四 延喜御時の屏風に 紀貫之
ゆきて見ぬ人もしのべと春の野のかたみにつめる若菜なりけり
【通釈】行って見なかった人も思いを馳せよと、春の野の遊びの思い出の記念として筐に摘んだ若菜なのであった。
【付記】「かたみに」は「形見に」「筐に」の掛詞。『和漢朗詠集』などにも採られ、愛誦された歌。
※源氏物語「早蕨(さわらび)」
「この春は誰にか見せむ 亡き人の形見に摘める 嶺(みね)の早蕨」
姉君(大君)の亡くなってしまった、今年の春は誰にお見せしましょうか。あなたが、亡きお方の形見として摘んでくれた峰の(山の)早蕨を。注:「形見」に「筐(かたみ)(=竹かごの意味)」を響かせる。和歌中の「かたみ」という言葉が、「(亡き父の)形見」と「筐(竹籠)」の掛詞になっているのです。簡単にいうと、「亡き父の形見となるよう摘んだ嶺の早蕨」と「筐の中に摘んだ嶺の早蕨」という二つの意味が掛け合わされています。
・・・「かたみ」、ステキな響きです。
《参考》「花がたみ」/伝寺崎廣業筆
絹本着色軸装、軸先鹿骨、合箱入
全体サイズ:縦1710*横575 画サイズ:縦960*横418
https://blog.goo.ne.jp/otsumitsu/e/3dd2a9d886d0970c9c5bcef1be194843
★「花がたみ」/作:上村松園
「花がたみ」(花筐は竹で編んだ花籠)は第九回文展出品作で、大正4年の制作である。照日前の能衣裳の美しさにともない、狂人の表情を示す能面の凄美さは、息づまる雰囲気をそこに拡げています。松園は能面「十寸髪」(ますがみ)を狂女の顔の参考にしたという。いとしい人にあいたくてあいたくてあいたくて物狂いになった女を、女性画家の上村松園が描きました。魂が抜けてしまうほどに恋しがることを「あくがれる」といいます。この絵はそんなあくがれいづる女の恋慕を表現しています。髪は結髪されずに後ろに長く垂らした垂髪、灰白の小袖に茜色の長袴、その上に緑青の単(ひとえ)、単には鬱金色(うこんいろ)の花菱が並んでいる。その上に錆桔梗(さびききょう)、藤色、薄色、下二領を白にした紫の薄様の五衣を重ね、珊瑚の文様が散らされた赤白橡(あかしろつるばみ)の表着と萩と女郎花の文様が白く抜かれた白緑(びゃくろく)の唐衣を羽織っている。十二単のはずなのにどの衣も厚みなく左肩から崩れ落ちている。右手には白菊が盛られた花籠を提げ、その蔓には手紙が結ばれている。切れ長の目の中の瞳は、少し中央に寄り、光まで吸い取ってしまうような空虚な気配を漂わし、この世でない場所へ焦点を結んでいるようだ。少し開かれた唇は、当初の微笑みに、嘆き、怒りといった他の感情が加わり、せめぎ合い、引きつれ歪み、諦めて弛緩している。彼女の心が尋常ではないことが画面全体から伝わってくる。
・・・久しぶりに、「松園美術館」へ行きたくなってきました。