《上杉本洛中洛外図屏風》作:狩野永徳/金雲に輝く名画の謎を読む「黒田日出男」/影山幸一2009
https://artscape。jp/study/art-achive/1207045_1983。html
上杉本は、絵に文字が書かれており、すでに★絵を読むための“名付け”の名札があると見ることができる。名所などに付けられたそれらの名札を数えてみると右隻が127、左隻が108の合計で235ヶ所。とりわけ右隻の左側(第6扇)、内裏(天皇の住居としての御殿)に名札が多く、ここに制作者の注意が集中していることがわかる。洛中洛外図は、制作された時代ごとに特徴があり、時の権力者の城郭から庶民の町並み、農村の光景、寺社仏閣などの建築、年中行事や祭り、人々の日常の暮らしぶりが、四季を織り交ぜて表情豊かに描かれており、特に上杉本は思わず顔を近づけて見入ってしまう★文化情報の宝庫のような作品である。日本の絵画は、西洋の古典絵画にみられるイコノグラフィー(図像学)に類する★約束事(Code)は極めて少なく、時代の趣味趣向が、作品によく反映されるという日本の絵画の特徴を黒田氏は指摘する。★「だから歴史史料として絵が使えるのです」と。
最も古い洛中洛外図の町田本は、金を感じさせない。金雲はやまと絵の手法の一つで、金地・金雲を使った洛中洛外図ではこの上杉本が一番古い。全体金ピカの世界なのだが、雲と地の接点は胡粉を朱で着色し盛り上げて微妙に変えている。微妙に表現上の違いがある。2007年12月、日本学術振興会の科学研究費基盤研究S「中近世風俗画の高精細デジタル画像化と絵画史料学的研究」の8×10判カラーポジフィルムによる撮影時に、黒田氏は熟覧したが、★金箔特有の四角い筋の連なりは見出せなかった。この金が金箔でないとすれば、金泥(金の粉末を膠でとき、顔料としたもの)ではないかと推測する。金雲の表現の前提として、★15世紀の後半あたりから非常に繊細で装飾的な金と銀の使い方をした絵がたくさん作られていた。装飾的効果がある金に対する★日本人の愛好、嗜好の流れが見てとれる。
《金屏風のこばやし》葛飾区伝統産業職人会より
https://www。syokuninkai。com/products/list。php?category_id=77
特に、日本で独特の進化を遂げたのが、★蝶番(ちょうつがい)の部分。それまでは革ひものようなもので結んでいただけだったものが、和紙を使ったあい折りという技法が発明され、これにより360度★表裏関係なく、折れるようになったのです。その結果、継ぎ目がわかりにくくなり、絵を描きやすくなり、たくさんの屏風絵画家が日本で輩出されました。一方、絵の描かれていない金屏風は、金箔の絢爛さと、無地であることのつつましさを兼ね備え、結婚式などのおめでたい席で主役を引き立てる道具として、使われるようになります。金屏風は六曲一隻(6枚組)と数えられ、通常の使い方であれば、20年は持つといわれます。良い品であれば、たとえ表面が傷ついても、何度でも修理が可能であり、また、そうして★長い時を使い続けることが縁起が良いとされています。
《風神雷神図屏風》京都国立博物館より
https://www。kyohaku。go。jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item10。html
款記も印章もそなわらないこの屏風が、俵屋宗達(生没年不詳)であることを疑う人はいない。尾形光琳も、さらにそのあとの酒井抱一も、これを模倣した作品を制作しているのは、彼らもまた、この屏風が★宗達筆であることを微塵も疑っていなかったからである。ここに貼りつめられた金箔は、★描かれる物象の形を際立たせ、金自体が本然的にもっている装飾的効果として働いている。そればかりではなく、この屏風においては、金箔の部分は★無限の奥行をもつある濃密な空間に変質しているのである。つまり、この金箔は、単なる装飾であることを越えて、無限空間のただなかに現れた鬼神を描くという表現意識を裏打ちするものとして、明確な存在理由をもっている。傑作と呼ばれるゆえんがここにある。
・・・そうなんです「無限の奥行」を感じるから、不思議です。ここで疑問が生じました。「箔特有の四角い筋」は、当初から「ネライ」だったのでしょうか?気になって筋を★目立たないようにしたいと思った人もいたはずです。
《金属箔粉技術の進展と電池高性能化》/福田金属箔粉工業株式会社・吉永弘
https://www.fukuda-kyoto.co.jp/
わが国における金属の箔や粉は、1200年前の金箔にさかのぼるといわれ、その製造は、石台の上で金を紙に挟んで槌でたたき厚さを0.1~0.25μmまで薄く延 ばしていた。10円硬貨大の金(10g)なら畳一枚分(約0.2m2/g)まで延ばしていたといわれる。それらの技術がいつごろから始まったか定かでない。
1700(元禄13)初代当主「福田鞭石」京都・室町で金銀箔粉の商いを始める。当社における箔や粉の製造技術をたどってみると1700年(元禄13年)頃に金の箔と粉を美術工芸品として手がけている。当初は金の箔と粉を手造りし、それを金屏風(びょうぶ)や金糸・仏壇・蒔絵(まきえ)などに使っていた。その後、金紛粉(きんまがいふん)という真鍮粉の生産を家内工業で開始した。1900年代初期にようやく水車を動力源にして工場生産が始まった。
《室町時代やまと絵屏風の金・銀・雲母技法研究》阪野智啓/愛知県立芸術大学研究紀要2018
室町時代のやまと絵屏風は、「浜松図屏風」(東京国立博物館蔵)や「四季花木図屏風」(出光美術 館蔵)のように、大画面に雲母や金銀箔による装飾を施した光り輝く表現に特徴がある。白く輝く 雲母の地塗りの上に、わずか数ミリの細かな金銀箔が雲霞のごとく撒き潰され、画面全体が輝く素 材で満ちている。このような屏風は室町時代の文献に★「金磨付(きみがきつけ)」という呼称でたびたび登場し当時の活況が想像されるが、戦国時代以降には大画面を★方形の金箔で埋め尽くす「金碧障壁画」が主流となり、金銀による「みがきつけ」の屏風は次第に忘れ去られていく。
しかし現在では山根有三氏らによる現存作品の相次ぐ発見を契機に、加飾様式の変遷や雲霞の形 式、制作背景の研究など様々な角度からの分析が進み、室町時代のやまと絵屏風は桃山時代の金碧 障壁画の前史的なものではなく、時代を代表する分野として紹介されることが一般的となった。ただ現存する屏風絵は特に銀と雲母の発色が大きく損なわれ、中世の人々が追い求めた光り輝く屏風絵本来の姿を窺い知ることができない。また雲母を画面全体に塗布する技法や、「みがきつけ」という言葉が後世ほとんど用いられなくなるため、金銀を用いた絵画技法としても不明な点が多い。名前から金を磨くことが想定できるため、それにまつわる金銀箔技法について大きく三つの解釈が あり、(1)「金銀箔を撒く」技法、(2)★「金銀箔を貼りつけた合わせ目を消すために、金銀泥を上 から塗布して更に磨く」技法、(3)「金銀泥を磨く」技法、と理解されている。ただ(1) については「撒く」ことと「磨く」ことがどのように結びつくのか、さらには細かな切箔を「磨く」ことにいったいどのような効果があるのか、技法の点で少し不明瞭に思う。磨く目的として、真っ先に思い当たるのは金の輝きを増す効果が挙げられるのだが、細かな切箔の撒き潰しではたしてそのような効果が得られるのだろうか。また(2)のように磨いて金泥を塗布することによって金の継ぎ目が消えることが想定されているが、金箔の上から金泥を塗布するとかえって金箔の輝きが鈍 ることを実感しており、検証の必要性を感じている。
切箔とは、本来は★三寸角以上(一寸は約3センチ)ある金箔を、竹刀で細かな方形に切ったものをさす。切箔は江戸時代に狩野派によって記された『本朝画史』や『画筌』に、★「微塵」や「山椒」、「小石」などの名称でさまざまな大きさに分類されているが、室町時代のやまと絵屏風で多用される切箔や砂子の大きさは★数ミリ程度の細かなものが多い。
戦国時代から桃山時代にかけて金碧障壁画が流行すると、切箔や砂子だけの屏風絵は姿を消していく。事情はさまざまあるのだろうが、実技からの見解に限れば、まずは★切箔を切る手間と費用が挙げられるだろう。空間を埋めるために必要な切箔の量は、方形の金箔を一枚押すことと比較すると、同じ面積をそれなりに金色に見せるためには★三倍以上の金箔を裁断しないと足りない。戦国時代以降に求められた★大量の障壁画制作では、コストもかかり作業量が大きく嵩む切箔の作業が敬遠されてもおかしくなさそうである。
16世紀の制作と考えられる「日吉山王・祇園祭礼図屏風」(サントリー美術館蔵)の金雲のよう に、胡粉下地に金箔かあるいは金泥を施して磨き込んだと思われる技法がある。狩野永徳による★上 杉本「洛中洛外図屏風」(米沢市上杉博物館蔵)も、金雲のピンホールから赤色が確認でき、絵具の 下地を感じさせる。これらは現在でも新鮮な輝きを保ち、黄金色がひときわ目立つ。このような下地に金箔を貼って磨く技法は、西洋の★「黄金背景テンペラ画」の技法を彷彿とさせるが、戦国時代にその技法が日本へ伝播した可能性が佐々木丞平氏と佐々木正子氏によって指摘さ れている。本研究でも黄金背景の技法の影響を鑑みて、洋画の保存修復を専門としている成田朱美氏から技法の手ほどきを受け、共通性を探った。黄金背景は、背景部分の金箔を磨き上げることによって非常に★強い光輝性を持たせた、中世キリスト教絵画の技法である。簡単に手順を紹介すると、まず麻布に兎膠で練り上げた石膏下地を塗布して、鉄板で削り表面を整え、さらにボーロ (箔下砥の粉、赤砥)を塗る。乾燥した下地を水で濡らして、5センチ程度にちぎった金箔を無造作に貼り付け、定着した頃に瑪瑙棒で磨き込むと★箔の継ぎ目がまったく無くなり、反射的な輝きが現 れる。磨く効果を発揮させるには★下地のクッション性が重要で、磨くことによって金箔が下地に圧着して輝きが増すことが黄金背景の試作によって実感できた。
★方形金箔の平押し/一定の大きさの方形金箔だけを画面全体に平押しした室町時代の屏風絵として、「松図屏風」(東京国立博物館蔵)がある。室町時代で、背景が総金箔地の屏風絵はこのほかに確認されていないが、泉万里氏によって絵巻や掛幅絵伝の画中画でもいくつか総金地の屏風絵が認められることが指摘されており、これ以前にも総金箔地の屏風が多くあったことが想像される。この「松図屏風」に貼られている方形金箔からは、近世によく見られる箔を★梯子状に継ぎ重ねた跡があまり感じられない。この点については、金箔地に金泥を塗布して磨くことによって、箔足を軽減させたとされている。またこれに相当する用語として「置箔ミガキ」と近世末期に呼ばれていたことが、武田氏によって紹介されている。「松図屏風」においては、やや重なり幅が広い金箔四辺の箔足が散見できることが気になるが、これに関わる中世金箔の材質については次章で考察したい。ほかに方形金箔を貼った上から金泥を塗布した室町時代の屏風絵に、「日月松鶴図屏風」(三井記 念美術館蔵)がある。金泥は磨くことによって輝きが増すため、金箔の上から金泥を塗布した試作を作り磨いてみたが、金箔のみの輝きに比べれば劣り、金色も鈍くなる。金泥の塗布については★箔足を消す意図もあったのかもしれないが、箔足は貼りたての段階では現状ほどに浮き上がって見えないため、屏風のような大画面に、わずかな箔足を嫌って高価な金泥を金箔との★二重使いで塗布することは不自然のように感じられる。金碧画などで現在確認できる箔足は、★金箔の経年による痛みによって、二重に貼り重なった部分がより強調されて見えているものだろう。金箔地に金泥を塗布した試作からは、金の色味や輝きが抑制される印象を強く感じさせる。また「日月松鶴図屏風」と「松図屏風」のいずれの下地にも雲母地があることが指摘されているが、方形金箔の平押しにどのような効果があるのか試作をしてもよく判らなかったため、引き続き実技的な検証を重る必要がある。
★継ぎ重ねた金箔/戦国時代以降に、一面を方形の金箔で覆い尽くす★「金碧画」が登場するが、そのほとんどの金箔には★継ぎ重ねた跡が見える。金箔は、金の小板をさまざまな段階を経て極限までに薄く打ち延ばして作成されるため、打ち延ばされたままの状態では波状に広がって不定形になっている。現代の金箔は、不定形に打ち延ばされた箔の四辺を裁ち落として方形に成形しているため、金箔の中に継ぎ合わせたような跡はない。しかし近世の金箔は、まるで★梯子のような箔足が見える金箔がほとんどである。この頃の金箔については野口康氏によって、不定形に打ち延ばされた金箔を方形に成形する際、ある部分から二つに裁断し左右を入れ替え、隙間を箔片で埋めて方形に組み直すことによって生ずる★「継ぎ重ね」の跡との指摘がなされている。世界各国の金箔製造についてまとめた金沢美術工芸大学美術工芸研究所の『世界の金箔総合調査』によると、タイやミャンマー、インドではいまだにそれに近い成形をしていることが示され極めて示唆的であり、本稿も野口氏の説に従いたい。筆者が取材できたミャンマーのキングガロン工房では、打ち延ばした金箔をまず二分割にして、さらに適宜裁断した金箔片を5センチ四方の合紙の上に組み合わせて成型していた。ミャンマーで入手した箔を試しに平押ししてみたら、継ぎ重ねた跡が浮き上がって見えた。現代の日本のように打ち延ばした箔を方形に裁断すると、切り落とした余分(切り廻し)ができるが、このように成形すると切り廻しがあまり出ない(ただし切り廻しは、現在の日本では★金泥製造の素材になっていて、決して無駄にしているわけではない)。ミャンマーの打ち延ばした金箔の直径は二寸五分前後で、現代の日本のものは四寸三分以上あるため随分と小さい。日本では「縁付(えんづけ)」と呼ばれる箔打ち技法が発達して箔打紙の改良が進み、金が破れることなく薄く、さらに大きく打ち延ばすことが可能であるが、ミャンマーでは竹紙を箔打紙とし、現在でもなお手打ちをしている。ただし野口氏も指摘しているが、近世の金箔のすべてが継ぎ重ねて成形されているわけではなく、継ぎ重ね箔が主に押された画面の中でも、わずかに継ぎ重ねのない箔が発見できることがある。また狩野山楽の「龍虎図屏風」(妙心寺蔵)に使用されている金箔は、四辺の直線が安定せず、まるで成形前のような継ぎ重ねのないものを多用しているようにも見える。
・・・奥が深いですねえ、さすが「金箔」です。実際に「金箔」を使用できませんが、少しでもこれらの伝統文化を作品に生かしたいと切に思うのです(思いばかりが先行してますが)。