水たまりの月 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・一茶の句「あの月(名月)をとってくれろと泣く子かな」が頭から離れなくて、

 

《水たまりの中の月》作詞:326/作曲:筒美京平/唄:安倍麻美2005

眠れない夜には窓をくぐって屋根登った

屋根から見える空、街はいつもとどっかちがってた

そこに君はいた心ん中に秘めていた

僕のSOSをたどり、みつけ、連れ出してくれた

水たまりの中光る月を★「つかまえた」と言い笑う君に永遠の愛を誓う

いつ頃から僕は大人と呼ばれだすのだろう?

何処までも子供じゃやっぱダメかなあ?そっか困つたな

夢も先生が決めたりしてくれないのかな?自由すぎて今自由に東縛されてるよ

遠くで唸つてる不安よりも隣で笑うてる君の言葉信じる串にした

幼い頃夜が怖くて落ちそうでおびえてた

そういつももういつもママのスカートを

つかんでは隠れては空に落ちないよに

みてた空をみてたそんな空が今はいちぱん僕にやさしい

 

・・・実姉は元モーニング娘の安倍なつみさん、麻美さんは2011年に引退し結婚されています。

 

 

《水たまり ひとつ ひとつに 陽の光》浄土宗「今月の言葉」2017.6より

神奈川県真鶴町★「西念寺」小俣慶樹

https://jodo.or.jp/keyword/1924/

6月は水無月ともいいます。「水が無い月」という意味ではなく、水の月。つまり田植えに多くの水を必要とする月です。暦の上では梅雨入りとなり、農家にとっては田植えの日を決めるうえで、梅雨の時期を知ることは重要でした。気象学が発達していなかった江戸時代に、目安として暦の上で入梅を設けたそうです。同じ「つゆ」でも「露」を、仏教では人の命にたとえます。朝露のように儚く、人の命はいつ消えてしまうかわからないもの。しかし、紫陽花の葉の上に残る一滴の朝露はたとえ儚いものだとしても、陽の光を浴びた時、何より輝き美しいものとなります。露のように儚い命も「必ず救うぞ、必ず導くぞ」とお誓いくださった阿弥陀仏の大慈悲の光明はお念仏をとなえる私たち一人ひとりに降り注ぎ、漏らすことはないのです。また、法然上人のお歌に

露の身は ここかしこにて 消えぬとも 心は同じ 花のうてなぞ

とあります。これは露の身のように儚いお互いの身でも、後世必ず西方極楽浄土で再会できる、と詠んだものです。小学生時代のある夏、両親から買ってもらった長靴を早く履きたくて、玄関にその新品の長靴を置いていました。雨の日を今か今かと待っていましたが、そんな時は晴れが続くもの。ようやく雨になると〝待ってました〟とばかりに長靴を履き、水たまりを駆け回っていました。★雨の日が楽しかったのです。きれいな水たまり、濁った水たまり、深いものや浅いもの。雨あがりに射す陽の光で、雨水をお腹いっぱいため込んだ水たまりは、鏡のように上空の青空や周りの景色を映し出し、覗き込むと自分の顔も映ります。陽が射したおかげで、水たまりに映る自分の姿が見えるのです。南無阿弥陀仏は「助けたまえ阿弥陀仏」という意味。もちろん、往生するためにおとなえするのですが、となえるうちに普段気付けなかった本当の自分の姿に気付けるものかもしれません。現代社会を生きるためには、自分を高く評価してもらい、他に負けない自分をつくることも必要かもしれませんが、それは本当の姿を見失わせている原因のひとつかもしれません。気負わず、自分自身を責めず、ありのままの私を救ってくれる。梅雨の合間に射す陽の光の温かさを感じるたび、阿弥陀仏のありがたい存在を感じるのです。

 

 

※「黒田長政供養の碑」

259-0201 神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴1925「西念寺」/0465-68-0402

http://www.town.manazuru.kanagawa.jp/manazurumachinoshokai/manazurumachinitsuite/285.html

豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛の長男「黒田長政(1568~1623)」の供養碑が神奈川県真鶴町の西念寺にあります。徳川家康により、九州の筑前福岡藩(52万3000石)の初代藩主となった人です。その黒田長政より江戸城の用石発掘の命を受けた福岡藩士小河織部正良は、岩小松山に良質の石材(★本小松石)を発見し石丁場を開いた。黒田長政13回忌にあたり、小河織部正良は供養の石塔を建てたといわれ、礎石部分は当時のものと伝えられている。

 

《本小松石》Wikiより

神奈川県足柄下郡真鶴町、岩 (真鶴町)地区で産出される安山岩である。香川県の庵治石(あじいし)、岡山県の万成石(まんなりいし)と並んで最高級品のひとつとされ、日本の銘石としてブランド化されている。 皇室をはじめ、徳川家や北条家、源頼朝など歴史上の人物の墓石にも使用され、古くから親しまれている。近年は採石場の確保が難しいこと、量産体制を確保する事ができないことなどから、供給不足の傾向にある。

https://yugawarasekizai.com/about/

約40万年前に箱根火山の噴火により、流れ出た溶岩が海に押し出されて、急速に固まって形成されたのが本小松石です。石の組織や特徴は、その石が形成されるまでの過程により違ってきます。 本小松石のように、マグマが急速に冷やされて、地表や地表の近いところで急速に固まった岩石は、火山岩に分類されます。石のつくり(組織)は、石基と呼ばれるほぼ一様な部分の中に、斑晶と呼ばれる大きな結晶が混ざっています(斑状組織)。本小松石は、含まれる造岩鉱物の割合から、地質学上は「輝石安山岩」として分類されています。(湯河原石材株式会社より)

 

 

★真鶴町「石の彫刻祭」2019年9月20日〜11月30日

https://art-manazuru.jp/

《箱根・湯河原・真鶴版タウンニュース》2019年5月1日号

真鶴町 蘇るか彫刻の祭典 来年の五輪に合わせ、今秋にも公開制作

真鶴町が東京オリパラに合わせた石の彫刻祭を計画している。★1963年、東京五輪の前年に、真鶴の道無海岸で石彫イベントが開かれた。伝説的な盛り上がりを今に蘇らせ、地元産「小松石」のPRをめざす。世界近代彫刻シンポジウムは朝日新聞が主催し、国内外の有名彫刻家12人がハンマーを振るった。材料は小松石の巨岩だった。完成作品はオリンピック開催時に新宿御苑や競技会場で展示され、その後は関西の宗教団体に売却されたとも伝わる。町内に唯一に残る道無海岸の記念碑は雑草に囲まれ忘れられた存在だが、町側はここに作品を展示し再び「聖地」として整備する方針だ。彫刻祭は2つの期日に分け、彫刻家が町に滞在し公開制作(今年9〜11月)、ワークショップやアーティストトークなども構想。彫刻祭や展示は東京オリンピック・パラリンピックが開かれる来年夏に合わせる。会場や彫刻家の人数、予算規模などは検討段階として明かしてない。今後町を中心に実行委員会も立ち上げるという。

 

・・・残念ながら、東京オリンピック・パラリンピックは延期となりました。1963年「世界近代彫刻シンポジウム」の作品は、1964年オリンピックで大作15点がスタジアムの周辺を飾りました。東京オリンピックの後、作品は大阪富田林★PL教団に買い上げられ、現在も「大平和祈念塔」を囲むように設置されています。

http://www.perfect-liberty.or.jp/

 

★真鶴半島採石場跡

http://www.hakone-geopark.jp/area-guide/manazuru/034manaduruhantousaisekijyouato.html

真鶴半島では、海食台の各所で石を切り出した時に残された矢穴の跡を見ることができることから、あちこちで採石が行われていたと考えられる。現在も真鶴町の内陸山側では採石が行われている。石は、真鶴半島側のものが新小松石、内陸山側のものが本小松石と呼ばれ商品化されている。真鶴半島は良質の安山岩の産地として知られ、鎌倉時代から石塔類などに用いられたが、江戸時代のはじめには江戸城築城のため多数の石丁場が開かれ、水戸藩や尾張藩などの大名丁場が開かれた。また半島北西側の小松山と呼ばれた一帯は墓石などに適した小松石の産地として知られている。

 

 

★Love Stone Project/彫刻家:冨長敦也

https://www.facebook.com/LoveStoneProject/

 

・・・真鶴は「石」で有名なところなんです。

 

《水たまりの思い出》2019.7.8メルヘンの森幼稚園「園長(伊勢千春)室」より

http://www.meruhen.ed.jp/

園庭を見渡せば、元気に裸足で駆け回る子、水たまりにピチャピチャ入り上がるしぶきに歓声を上げる子、まるでお風呂に浸かっているように友だちと顔を見合わせながらにこにこと水たまりに浸かる子など様々です。そんな子ども達をみていると、本来の幼児期の子どもの姿はきっとこうなのだろうと妙に納得してしまいます。大人からみて一般的に考えれば、どうしてわざわざ水たまりに向かうのか、水たまりでビチャビチャしたら、靴も濡れるし着替えも大変だからやめて~と思うことがあるのではないでしょうか。実は私も娘の幼少期に水たまりから発見したことがあるのです。娘がまだ保育園に通っていた頃。7時台には園に預けて出勤していたので、朝はまさに戦争でした。一分一秒が勝負で、とにかく無駄を省きたいし遅刻したら大変、だから子どもにはなるべくスムーズに動いてほしいと思っていました。ましてや雨や雪の日などはいつもの大荷物にさらに傘まで増えたり道路も渋滞したりするので、無駄な動きは極力避けたいと…(苦笑)。しかしある時、そんな考えは大人の勝手な都合なだけで子どもにとっては何の関係もないということに気づきました。それは、ある雨上がりの朝のことでした。娘が駐車場内で水たまりを発見し、吸い寄せられるように走っていきました。私は、(はぁ~…急いでいるのだから今あそばなくたって保育園に行けばたくさんあそべるのに…)と心の中でため息がこぼれました。ところが「ママ!みて!水たまりがすごいよ☆ほら、きらきらしてるよ☆」と水たまりを指さして満面の笑みを浮かべた我が子がそこにいました。大発見をしたような、すごい宝物を見つけたような、何とも言えない高揚した表情でした。そしてその後、満面の笑みのまま水たまりにビチャッ!ビチャッ!と勢いよく長靴でジャンプし始めました。時間にしたら一時のことでしたが、その一連の娘の姿を見て私はハッとしました。そうだよなー子どもなんだから、そんな魅力を感じる水たまりを目の当りにしたら、今、その水たまりに惹かれるに決まっているよなー…それが子ども本来の姿なんだろうと。そして、今までなんと勝手な都合で物事を考えていたのだろうと。今の私は、全て大人の事情、大人の都合で物事を考え、そこに子どもの思いや気持ちの入る隙間が果たしてあっただろうかと反省しました。保育園に行ってからでも水たまりでは遊べるのでしょうが、我が子は今ここにある、目の前にある水たまりが気になったのです。今ここにある朝の太陽の光を受けてキラキラ光っている水たまりにただ惹かれただけなのです。そういう思いはまさに『今』しか感じられないことだろうと。

 

 

《水たまりの中を泳ぐ―ポスタルコの問いかけから始まるものづくり》

著:マイク・エーブルソン、エーブルソン(清水)友理/誠文堂新光社2017

https://www.seibundo-shinkosha.net/book/art/20554/

機能的かつ丈夫で、使うほどに愛着が沸くデザインが多くの人を魅了しているプロダクトブランド「ポスタルコ」。日常のささいなことに疑問を抱き、探究することがものづくりにつながっているという。たとえば、橋の構造に着目し、その強度とバランスをバッグに応用したり、革に替わる丈夫な和紙を開発し、財布やカードケースをつくったりと、独自の着想からポスタルコならではの商品が生み出されている。本書は、ポスタルコが2000年に活動を始めてからこれまでの痕跡を写真やスケッチ、テキストでまとめたもの。身の回りにあるものの使い方に疑問を抱き、新しい使い方を考えてきたさまざまな例や、日々探究してきたことなどを紹介し、ユニークなものづくりのあり方を探る。

《参考》「ポスタルコ」

https://postalco.net/

ポスタルコは、NYで鞄のデザイナーだったマイク・エーブルソンが、A4サイズの書類ケースを持ち合わせの布と革で作ったことからスタートしたブランド。性別、年齢、国籍を問わずに愛されるそのプロダクトは、控えめでありながら実用性に優れ、どこかしら温もりがあります。

水たまりは、都市計画する人にしてみれば、★あってはいけないものだし、通行人にとってはジャマな存在です。浅くて、道路のデコボコによっていびつな形をした水たまりの中を泳ぐなんて、★できっこないと思うでしょう。でも、物事の一面だけを見てばかりで、ほかの可能性を見逃すということはないでしょうか。偶然できた形が可能性を秘めているかもしれません。★発明の中心には問いかけがあるものです。この本には、日々の問いかけやものづくりに加え、一見関係なさそうなものも含まれていますが、私たちにとってはどれも大切なことなのです。

★日本だから実現できた「妥協しない」モノづくり/2019.7.20Wedgeより

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/14937

「ポスタルコ(POSTALCO)」のブランドでステーショナリーや革製品を生み出してきたデザイナーのマイク・エーブルソンさん。妻で同じくデザイナーのエーブルソン友理さんも、モノづくりでは「妥協はまったくしませんね」と笑う。ふたりが出会ったのは米国ロサンゼルスにある美術大学「アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン」。マイクさんはプロダクトデザイン、友理さんはグラフィックデザインを学んだ。卒業後はニューヨークでデザインの仕事をしていたが、意気投合して2000年にブルックリンで「ポスタルコ」を共同で創業した。だが、ふたりは翌年、「ポスタルコ」の拠点を東京に移す。自分たちのデザインを形に変えていくには、技術と熱意を持った職人との共同作業が不可欠だと感じたからだ。★東京にはそうした職人が存在していたのだ。「例えば、この名刺入れ。開くと口が大きく開きます。そのためには高い技術が必要とされる縫製部分が増える。他の名刺入れにはない縫い方にすると職人さんにとっては面倒なのですが、たくさん名刺が入った時も形が崩れずにきれいに見えます」そうマイクさんは言う。そんなデザイナーの注文に根気よく付き合ってくれる職人が日本にはまだまだいる、というのだ。エーブルソン夫妻の流儀は、デザインしたら後は職人任せというのではない。職人と共に何度も試行錯誤を繰り返す。ただし、あくまで★デザイン先行ではなく、使いやすさが第一だ。

東京・京橋の複合商業施設「京橋エドグラン」の1階に「ポスタルコ」の直営店がある。04年に京橋にショップを開いた後、12年に渋谷に移転。再開発でビルが完成した16年に再び京橋に戻った。ステーショナリーだけではなく、バッグなども置くガラス張りの店舗はオシャレな高級有名ブランド店ばりだ。一見、輸入品を扱っているようだが、初めての来店客は「日本の職人の手作り」と聞いて一様に驚くという。京橋はショールーム的色彩が強い。「ポスタルコ」は初めから「世界」を視野に入れた販売を展開してきた。★使い心地の良いものに対する興味は全世界共通だと考えたからだ。インターネットの普及で、オンラインショップが俄然力を発揮した。いま、売り上げの半分近くは海外からの注文だ。ウェブサイトはオシャレだ。製作までのストーリーやデザイナーとしての思いがつづられている。もっぱら友理さんの得意分野だ。「ポスタルコ」の最新作は「モーグルスキーチェア」。北極圏で使う犬ぞりの形から着想を得た。家具にも領域を広げるに当たって、本物の木の家具にこだわる★「カリモク家具」とコラボレーションした。カリモクと組めばより良い木材を調達でき、イメージ通りのイスが作れると考えたからだ。受注生産方式で販売する。「ポスタルコのお店自体を大きくしようとは考えていません」と、友理さん。ポスタルコはあくまで、自分たちのデザインをモノとして実現するひとつのルート。他の企業などとのコラボレーションに力を入れ、自分たちのデザインや発想がより多く実現すればよい。そう考えているようだ。大量生産、大量消費の時代は、「良いものをできるだけ安く」という理念でモノづくりは進んできた。だが、世の中が豊かになり、モノが有り余る時代になって、そうした理念はデフレを加速させることになった。その反省もあって、「本当に良いものを作り、きちんとした値段で売る」流れが強まってきている。消費者も、価格一辺倒ではなく、「長く使えるものなら、少々高くても、本物がいい」という志向に変わってきた。「ポスタルコ」の品々はそんな日本社会の変化にフィットしていると言えそうだ。

 

《参考》「カリモク(Karimoku)」

https://www.karimoku.co.jp/

主に家庭向けの家具の製造から卸まで手がける家具・インテリア企業であり、家具業界の最大手である。本社所在地は愛知県知多郡東浦町。資材会社・製造会社・販売会社の3部門11社からなるグループ企業制を採っている。カリモクとは「刈谷木材工業」の略称。

 

・・・久しぶりに、次から次へと「つながり」が。そうなんです。なぜ自分がこだわっていたのか、その理由は★ここかしこにあるもの、なのです。

 

《ここかしこ》goo辞書より

[代]指示代名詞。こちらやあちら。あちこち。ほうぼう。「毎日★此処彼処を遊び歩く」

 

・・・これらのイメージを大切にしながら、じっくりと「月のアート」制作を進めていきます。