フジヤマ(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・前回★「常陸国風土記」について掲載したところですが、富士山と言えば「大観」を欠かすことができません。

 

【横山大観】(1868~1958)

★常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。

★「横山大観記念館」

110-0008東京都台東区池之端1-4-24/03-3821-1017

http://taikan.tokyo/index.html

横山大観記念館は理事長・横山隆(大観の孫)氏をはじめとした大観画伯の遺族により設立された財団により運営されています。上野池之端不忍池のほとりにある横山大観旧宅は、木造2階建ての数奇屋風日本家屋です。明治41年(1908)この地に住み始めた大観自身のデザインによる京風数奇屋作りの建築と庭園が、大正8年にこの場所に建てられ、自宅兼画室として使用されていました。東京大空襲で焼失後、昭和29年(1954)にほぼ同じ形で再建されました。大観は亡くなるまでここに住み、制作活動を行いました。細川護立侯爵から贈られた庭石のある庭園の樹木などは、多くの大観作品の画題となりました。

 

※新型コロナウィルス感染防止要請に協力の為5月31日(日)まで臨時休館します。

 

 

 

★大観美術館とも呼ばれる、富士山絵のコレクション/「和楽」より

https://intojapanwaraku.com/jpart/1443/

生涯に亘って数多くの富士図を描いたのが近代日本画の巨匠・横山大観、その数はおよそ1500点以上。近代日本画壇において最も有名な画家と言っても過言ではありません。そんな大観の初期から晩年に至るまでの作品が120点余りも所蔵されている足立美術館、別名「大観美術館」とも呼ばれるほどにコレクションが充実しています。この美術館の創設者である足立全康の「日本の美」に対する熱い想いが結実した故の成り行きでした。創設当初より「名園と横山大観コレクションの調和」、すなわち日本庭園と日本画のコラボレーションによる日本美の探求を基本方針としてきました。それは、「日本人ならだれでもわかる日本庭園をつくって四季の美を体験してもらい、その感動のままに、日本人なら知らない者がいないほど有名な横山大観という画家の作品に接することで、日本画の魅力を理解してもらいたい」という彼の強い願いがあってのことでした。戦後、繊維業で財を成した足立全康は、それまで美術とはまったく無縁の生活を送っていました。しかし、あるとき大阪の古美術商で横山大観の「蓬萊山」という作品に衝撃を受け、「いつの日かきっと大観の絵を買うぞ」と心に誓ったのだそうです。

 

 

《参考》横山大観「海山十題」と1940年という空間/文:柴崎信三(ジャーナリスト)/2018年5月号 LIFE

https://facta.co.jp/article/201805019.html

日米開戦前夜の1940(昭和15)年11月10日。宮城(皇居)前広場に特設された式殿に天皇皇后を迎えて「紀元2600年式典」と奉祝会が開かれ、各界から5万人の参列者が集まって広場を埋め尽くした。総力戦へ向けて国威を内外に示すため、建国神話に寄せて演出された国家的な祭典である。首相の近衛文麿と高松宮の寿詞(よごと)や奉祝詞のあと、昭和天皇が勅語を読み上げ、記念歌や舞楽が披露された。翌日の奉祝会では青空の下に設えた席に再び人々が連なり、天皇の御前で空前の壮大な祝宴を繰り広げた。日独伊三国同盟が結ばれ、大政翼賛会が発足し、「ぜいたくは敵だ」の標語が街角に掲げられたこの年は、一方で戦時体制へ向かう社会にある種の幸福感(ユーフオリア)が広がり、官民を挙げた興奮が列島を包んだ年でもあった。この年72歳の横山大観は、ドイツの総統★ヒトラーに富士山を描いた『旭日霊峰』を寄贈するなど、美術を通して戦争翼賛に国民を動員する「彩管報国」の指導的役割を担っていた。4月に東京・日本橋の三越と高島屋で開いた「海に因む十題」「山に因む十題」という20点の連作展は、そのような立場の大観が祖国への赤誠を国民に問いかけた一大イベントである。日本の自然と風土を謳いあげた作品は戦争前夜の祝祭空間の下で開催前から評判となり、作品は総額50万円という破格の高値で軍需産業などがたちまち落札、開催前に完売となった。この作品にはもう一つの物語が仕組まれた。大観は売上金を陸海軍に寄付し、それによって合わせて4機の戦闘機を献納したのである。「美談」がメディアを通して国民に伝えられると、「海山十題」の評判はひときわ高まり、大観の画壇のカリスマとしての地位を確実にした。「それ皇恩の優渥(ゆうあく)なる海山もただならず、余、三朝の恩沢を蒙り絵事に専心することここに50年。今、興亜の聖戦下に皇紀2600年の聖典に会し、彩管報国の念止み難きものあり、よって山海各十題を描きて之を世に奉ぐ」。出展のあいさつ文に大観はこう記した。「海山十題」はその成り立ちから紛うことない戦争翼賛画であるが、あまたの同時代の画家たちが実際の戦闘場面や銃後の情景を描いた★いわゆる戦争画とは、明らかな違いがある。文字通り、日本の海と山を主題として、四季の山河や海の表情を20点の作品に造形した連作である。陰翳を深める祖国の自然の移ろいに時局の変容が映るが、戦争の現実は全く描かれていない。ただ特異なのは、★「山に因む十点」のすべてが、富士山を描いていることだろう。生涯におよそ1500点もの富士山の絵を描いたという大観は21世紀の現在も「富士山の画家」と言われる。ところがその「富士画」の半分近くが日米開戦を挟んだ7年ほどの間に集中しているのは、何故か。若い日、「日本画」の確立を通して日本美術の正統を志しながら師の岡倉天心の蹉跌で果たせず、在野の日本美術院で辛酸の日々を送った大観は27(昭和2)年、初めて宮中の下命を受けて『朝陽霊峰』を献上した。この作品は古来「霊峰」と仰がれてきた富士に、旭日と松林を配した3点の図像で構成されている。「国体」を視覚化して国民を美的な秩序へ統合するアイコンの効果を生んでおり、以降「富士山の画家」は帝室技芸員への推挙や第一回の文化勲章受章者に選ばれるなど、★「天皇の画家」として彩管報国の旗手の道を駆け抜けるのである。戦局が深まるとともに、政府や軍部、そして広く国民の間でも総力戦へ向かう祖国愛の象徴として、清澄で気高い「富士」への賛仰が高まっていった経緯は想像に難くない。「海山十題」の10点の富士は、戦時下の「美の共同体」が天然の風景を主題に創出した戦争画という点で、きわめて特異な絵画といえる。水戸藩士の家に生まれて勤皇の空気に育った大観に、富士山は★国粋的な美意識の表徴であるとともに、師の岡倉天心が「アジアは一つである」と謳った★「不二一元」の思想に通じる精神の理想でもあった。天心が『東洋の理想』で説いた「アジアは一つ」はのちに、世界をひとつの屋根に束ねる「八紘一宇」の思想に転化され、★アジア進出を正当化する日本軍国主義のスローガンとなった。そこでは富士山に「大東亜」の屋根という比喩が重ねられた。40年に横山大観が「海山十題」で「富士」に託したのは、ただ戦時下の国民の愛国的な精神の動員といった動機を超えて、総力戦体制の下に志半ばで逝った師、天心の理想を問い直すことではなかったか。日本の敗戦でGHQ(連合国軍総司令部)が占領統治に入ると、さまざまな分野で軍部に指導的立場で協力した人々に対する戦犯追及が始まった。美術の世界では洋画の★藤田嗣治と日本画の横山大観がその標的だった。最終的には二人とも戦争責任を不問とされたが、★「私は日本に見捨てられた」という言葉を残してフランスへ帰化した藤田に対し、大観は戦後再び「富士山の巨匠」として復活する。「海山十題」の20点はこうした来歴から戦後流転を重ねて、★長らく行方不明だった作品が少なくない。一部が米国にまで流出したのは、★戦闘機に化けた戦争翼賛画という生い立ちの禁忌が少なからず影響している。その回収に大きな役割を果たしたのは、島根県安来市で木炭商から身を起こした実業家、★足立全康が立ち上げた足立美術館の蒐集と展示である。いまは大観の作品と美しい日本庭園で世界中から観光客を集めるこの美術館の蒐集の起点には、創設者の足立が戦後図録で見て心を奪われたという「海山十題」の富士画の一点、『雨霽(は)る』への深い愛着があった。最後まで行方が分からなかった★『海潮四題・秋』と★『龍躍る』の二点が「発見」されて、幻の名画「海山十題」の20点が揃ってこの一堂に展示されたのは2004(平成16)年である。大観は最晩年の1952(昭和27)年、84歳で描いた★『或る日の太平洋』で彼方に富士を仰ぐ太平洋の荒波に一匹の龍が翻弄される姿を浮かび上がらせた。戦後の冷戦下の★日本の運命を問うかのようなこの作品でも、悠久の「富士」は新しい時代の背景として、あたかも★黙示録のように遠景に姿をのぞかせている。

 

 

《参考》横山大観「海山十題」展/発見された幻の名画

2004年7月27日(火)~8月29日(日)★東京藝術大学大学美術館

https://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2004/umiyama/umiyama_ja.htm

近代日本画壇の巨匠・横山大観(1868-1958)は、昭和15年(1940年)に、自らの画業50年と紀元2600年を記念して、「山海二十題」(通称「海山十題」)という二十幅の連作を描きました。この連作は、菱田春草と共に朦朧体を提唱するなど、新しい日本画を創造し、数多くの名作を残した大観の画業の中でも、特に有名なもののひとつです。大観の50年にわたる画業の集大成といえるこの作品は、昭和15年4月に「海に因む十題」が日本橋三越で、「山に因む十題」が日本橋高島屋で公開された後、時代の波に翻弄され流転を重ねるうちに、その一部は所在不明となりました。本展は、その幻といわれた「海潮四題・秋」「龍躍る」が発見されたことにより、約20点が一堂に会する歴史的な展覧会です。

 

 

《参考》「絵筆のナショナリズム―フジタと大観の〈戦争〉」/著:柴崎信三/幻戯書房2011

書評:横尾忠則/朝日新聞2011.9.11

戦争画を描いた画家は何人もいたが、本書で槍玉に挙げられるのはその代表格藤田嗣治と横山大観だ。藤田の「国際派」に対して大観の「国粋派」。大同小異だが対比の分析が実に痛快(小同大異)。藤田と大観だけでなくオレだって戦争画描いているぞと言いたいが残念ながら当局からの要請ではない。子ども時代の戦争の死の妄想と記憶の恐怖を吐き出すためだ(私事)。藤田といえば「乳白色の肌」で、エコール・ド・パリの寵児がよりによって「乳白色の肌」を描いた同じ筆で「アッツ島玉砕」の戦争画を描いたからサァ大変。一方国粋主義者の横山大観は、民族精神を描く「彩管報国」の画家として日本画壇の頂点を極めた人。その彼の絵には戦闘風景は一枚もない。だけれど国家戦略の象徴に富士山を選んだ(頭いい)。そして★「富士山」を売って戦闘機4機を国に贈った。さてパリでの藤田の成功の反動は、西洋への媚や嫉妬となって日本に逆輸入(あゝ怖)。祖国に対する憧憬とコンプレックスの藤田は国内の評価の回復を視野に入れて、帰国と同時に次なる手は愛国画家として再登場を計り、打って出た(私見)。同じ日本人画家でもアメリカに骨を埋める覚悟の国吉康雄とはエライ違う。日本を追われるようにパリに帰る途中アメリカに立ち寄った藤田は国吉からも相手にされず、「寵児」を待つはずのパリでも冷水を浴びせられる。スイス・チューリヒで81歳で死去。ともに「戦犯」の汚名を着せられながらも、藤田の低迷に比べて大観は日和見的政治手腕によりこの難関を突破、戦後再び画壇に返り咲き、「彩管報国」の富士山はそのまま日本美の象徴として新たな光彩を放ち始めた。日本を舞台に展開した2人の戦争画家の二つの人生だ。藤田がアメリカへ発つ日、しみじみ述懐。「画家は絵さえ描いていればいい」(涙)。

 

 

・・・「黙示録」という比喩が、心につきささる。「画家は絵さえ描いていればいい」とは思うが、その生きている時代や社会を反映・規定されるのも事実。それを超える創造は、ありえるだろうか?そんなことを考えながら、「私のフジヤマ」制作を進めています。