フジヤマ(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・ここ最近の作品は「三曲屏風」風に仕立ててきましたが、今回、「フジヤマ」は「衝立」風です。

 

《屏風》goo辞書より

★風を屏 (ふせ) ぐ意。室内に立てて風をさえぎったり、仕切りや装飾に用いたりする調度。長方形の木の枠に紙・絹を張ったものを2枚・4枚・6枚などとつなぎ合わせ、折り畳めるようにしてある。多くは表面を絵や書で飾る。中世以後、左右二つを一双として、関連する図柄を描くようになった。冬の季語です。屏風には山を画書いて冬籠り/芭蕉

 

 

《衝立(ついたて)》Wikiより

日本の家屋(とりわけ、伝統的家屋)で用いられる、パーティション(間仕切り)用家具の一種。襖障子・板障子・組子などといった障壁に使える物に★台脚を取り付けることで自立する調度品に仕立てたもので、屋内にて、間仕切り、目隠し、風除け、装飾性・芸術性などを目的に用いられる。

★中国から日本に伝えられた飛鳥時代当時の屏風は、衝立の形態であったといわれる。

設置した場所から移動させれば、二分されていた居住空間はただちに元の一空間に戻る。衝立は、あくまで簡易的で一時的な空間分割の手段である。伝統的には座敷で用いるものであったが、現代では、玄関口、通り庭、台所などのほか、飲食店の間仕切りなどにも利用されるようになっている。玄関口に置かれる場合、ここでの役割の第一は目隠し目的の壁、すなわち、客の視線が奥の室内に直接届くことのないよう遮る壁であるが、それに加えて、訪問者が最初に目にする屋内の調度品であることから、★もてなしに相応しい美が期待されるものでもある。巨木の切り株や埋木(例えば、屋久杉の土埋木)を元に仕立て上げた衝立などは、本来の目的からすれば重量が過ぎておいそれとは持ち運べない大型家具が多いが、美の演出に主眼を置いたこのような衝立の事例も少なくない。なお、現在では伐採が禁止されていることから、屋久杉の衝立はそれが盛んに生産されていた当時(おおよそ20世紀半ば以前)以上に稀少で高価なものとなっている。美的価値の高い石や鍾乳石を板状に加工して衝立に仕立てたものもある。美術品として分野を築いている屏風とは比べるべくもなく★ささやかではあるが、衝立もまた美術的な表現の場として一分野を形成している。すべてが絵画で表現される屏風に対し、衝立のそれは絵画や漆仕上げなどによる平面的表現に加え、彫刻を大いに含む。衝立の彫刻は板面に浮き彫りで表されることもあれば、台脚より上部のすべてが本体である場合もある。

 

《日本後紀》弘仁3年(812)の〈屛風一帖,障子卌六枚を東寺に施入す〉という記事を勘案するならば,障子は屛風とならぶ障屛具で,前者が格子の両面に布または紙をはって一枚の板状にしたもので,現在の襖と衝立の総称であったのに対し,後者はそれを6枚連ねて一組とし,折り畳む形式にしたものと解釈できよう。〈衝立〉が語として成立する時期は明確でないが,《枕草子》にあらわれる〈衝立障子〉はその早い例である。障子として一括されていたもののうち,下部に台がついていて自立できる形式のものを衝立障子として分化させたのであろう。

 

 

《表具の世界》宏精堂家門表具店より

https://kouseidou.jp/hyougu/

『障子』という言葉が日本の書物に初めて登場するのは伝存する日本最古の勅撰の正史である『日本書紀』で、西暦645年に中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺した「乙巳の変」を描いたシーンです。

日本書紀巻第廿四 皇極天皇四年六月

是日、雨下潦水溢㆑庭、以㆓席障子㆒覆㆓鞍作屍㆒。

(現代語訳)

この日は大雨が降り、庭は水で溢れていた。庭に投げ出された鞍作(蘇我入鹿)の死体は、席障子で覆いをかけられた。

佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に斬殺された蘇我入鹿の遺体の目隠しに使われたのが席障子という衝立の一種です。(当時は、物の隔てに立てて遠望を妨げる建具衝立類の★全てを「障子」と呼んでいました)衝立が『衝立障子』と呼ばれるようになったのは、現在の襖・障子の元になった★『遣戸障子』が生まれた頃と思われます。皆さんが御存知の「枕草子」の中にも、『衝立障子』が出てきます。

http://www.ktmchi.com/SDN/SDN_012-2.html

人の家につきづきしきもの 肱折りたる廊。円座。三尺の几帳。おほきやかなる童女。よきはしたもの。侍の曹司。折敷。懸盤。中の盤。おはらき。衝立障子。かき板。装飾よくしたる餌袋。からかさ。棚厨子。提子。銚子。

清少納言によると衝立は、平安時代中期には人家になくてはならないものだったんですね。

 

 

・・・「衝立」と言えば「一休さん」、

 

『一休咄』Wikiより

http://www.eonet.ne.jp/~chaos-noah/zen/ikkyu/index.html

作者不詳で、世に出たのは一休の遷化から200年余り後の江戸時代前期・元禄年間である。実在の一休が周建を名乗っていた幼少時代に時代が設定される。『一休咄』は民衆の願いを歴史上の人物に仮託した読み物で、一休の事績の他に、一休になぞらえた民間説話や登場人物を他の高僧から一休に置き換えた伝説が数多く挿入されており、史実とは言い難い。

★「屏風の虎退治」

足利義満が一休に出した問題の一つ。「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治して欲しい」と義満が訴えたところ、一休は「では捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切り返し、義満を感服させた。

★「このはし渡るべからず」

桔梗屋が一休に出した問題の一つ。店の前の橋を一休さんが渡ろうとすると、「このはしわたるべからず(『この橋を渡るな』の意)」と書いてある。しかし一休は、「この端(はし)渡るべからず」と切り返し、橋の真ん中を堂々と渡った。後日談で、同じ問題に加えて「真ん中も歩いては駄目」と難題を出されたが、「橋に乗らねばよいのだろう」と敷物を敷いてその上を歩いて渡ってきた。

 

 

・・・「衝立の虎」だと思っていましたが「屏風の虎」と書かれているのも多くありました。ただ、絵的には「衝立」の方が表現しやすいのではないかと思います。さらに、

 

《参考》新聞用語懇談会放送分科会

「助数詞の数え方」のハンドブックを作るための作業もここ1年ほどかけてやっています。先日の会議の席では、「屏風の数え方」について、「京都チャンネル」などで古美術についてよく取材していて詳しい、関西テレビの岡本アナウンサーから、「京都国立博物館」の考え方を踏まえた説明がありました。それによると、屏風は曲がっているところの数を数えて、「曲(キョク)」と言い、よくあるのは、「六曲一双(ロッキョク・イッソウ)」の屏風だそうです。これは左側の屏風一枚が、(上から見て)山が3つあるように折れていて、それと対になる形で右にも同じ形のもの(絵柄は違う)があるという屏風だそうです。つまり『六曲一双の屏風』と言えば、左右合わせて12の面でひとつの作品が構成されているものを指します。どちらか片側だけだと、「六曲半双(ロッキョク・ハンソウ)」と言うそうです。余談ですが、そもそも「双」という字の旧字体は、「雙」であるところから(東京のお嬢様学校、「田園調布・雙葉(ふたば)」はこの旧字を使います。)この「進」の「しんにゅう(しんにょう)」を取った形のものが2つあると「雙=双」で、1つしかないと「隻」ということですね。「双」の半分が「隻」である理由は、旧字体だとよくわかるということですね。して「六曲」それぞれの「面」は「扇(セン)」と呼びますが、これは順番を表す呼び方なので、「右隻(ウセキ)の第六扇(ダイロクセン)に、あやめの絵が描かれている」というような使い方をするそうです。また、曲がっているところ(山)が一つしかない「二つ折れの屏風」は、「二曲一双(ニキョク・イッソウ)」と言うほか、「二枚折れ屏風」とも呼ぶそうです。(また、★とんちの一休さんが捕まえようとした、虎の絵が描かれた「一枚ものの折れていない物」は、屏風ではなく「衝立(ついたて)」だそうです。)また、屏風は形状的に、上に「梁(はり)」があることが多いので「架」で数え、「二架」で「一双」という数え方もあるようです。いずれにせよ、言葉だけではわかりづらいので、これは問題なく「イラストを付けて」掲載することになりました。↓こんな感じのようです。例:六曲一双の屏風 祇園祭礼図屏風 <京都国立博物館蔵> 「ものの数え方」って、調べれば調べるほど、いろいろなことがわかってきますねえ・・・。

 

《酬恩庵「一休寺」》

610-0341京都府京田辺市薪里ノ内102/0774-62-0193

http://www.ikkyuji.org/

 

 

・・・この「衝立」、裏が最高です。

 

 

・・・お寺に置かれているのは「衝立」ですが、なんと絵馬には「屏風」が描かれていました。統一する必要もないのかな?一休さん。とにもかくにも、日本の伝統文化を絶やさずに大切にしていきたいと願っています。